今日で、等伯が完結した。最後の締めくくりは、「絵師として歩んだ道に悔いはないが、生まれ変わったらもう少しいい絵が描けるようになりたかった。(本文より)」
こういう、職人は自分の仕事にやはり、満足できないのだろう。そしてそれは、作者、安部龍太郎に自分に言い聞かせる言葉であるとも思う。作者はおそらく、あの部分はまずかったなとか、書き変えたいけれど、もう活字にしてしまったので、どうにもならないなあ、という気持ちでいることだろう。
この小説の隠れた主役は、御所の八重桜である。等伯がどう思おうと、毎年春になると、花を咲かせる。この桜に等伯がかなうかとも思わせる箇所が、要所、要所に出てくる。そして桜は静かであるが、等伯は、生きてきた節目、節目に桜との静かな対話をしている。等伯は、この桜、つまり自然の偉大さに敬意をはらっている。
登場人物で、狩野派は随分、悪役になっているが、やはり全てが、よい役なら、話がつまらなくなるので、悪役を買ってでたものであろう。そういう狩野派の人々にお疲れ様と一言、声をかけてやりたい。
また、等伯の兄の生き様には、近寄り難い、凄みを感ずる。あくまでも、畠山家の再興のために、一命を殉じたのである。今の政治家でこんな人はいるだろうか。
全体をとうして、この小説は、今風に言えば、自己啓発とか、自己実現の小説ともいえる。行き詰り、壁に塞がれ、悩みぬいた末に、仏の世界に助けられている。全てのこの世の悩める人に、求めれば仏は手を差し出してくれる。等伯もこの仏の導くままに、最後は絵筆をとっている。
現代人は、自己啓発とか、自己実現といっても、それはほとんど、仕事のためであり、生活のためでる。等伯の様に、更にその上、更にその上と努力することは、困難な場合が多い。
しかし、時々、車の中で放送大学とか、NHKの通信制高校の科目を聞いたことがあったが、なかなかそれはそれで、面白いと思う。また、学問とはこういうものかとも、思う。知識の空間が広がるのである。NHKの通信制高校と言っても、教授陣は大学の講師で、そうそうたるものである。現代社会では東大の総長が講師をしていた。また、立命館大学の、若い女性講師の話は、チャーミングで面白かった。
人が悩むとき、どうするか。等伯では、自分ではどうにもならない力、仏にたよっている。作者もこの部分には随分、苦心したものと思う。そして下調べにかなりの時間を費やしていることも、想像できる。
さあ、それでは、読み終わって、現実の世界に戻った読者は、明日からどう生きるかである。