エポワス さんへ
小説を読むとか、人の話を聞くとか、楽しみでもありあますが、そこには、自分では体験出来ない、擬似体験が含まれております。
所詮、小説などは絵空事と片づけられない、別の何かを持っておると思います。
尽きるところ、作者本人の人生観がその中に、入っております。
吉川栄治は、育ちが貧しく、小学校の学歴でした。そこで、栄治は、おそらく、もっと学びたいという、欲望から、「我以外、皆師なり」という生き方が出てきたものと、思います。
そして、宮本武蔵の中で、剣をとうして、学習したいという栄治の願望をその中に入れたものと、考えております。その中で学習は真剣勝負、出来なければ、死ぬ覚悟を、いれたものと、思います。
等伯にも、この姿勢が全編をとうして、出ております。
等伯を読んで、これはと、思うのは、等伯の周囲の人が、いよいよ危機になると、援助するという箇所が、随所に見受けられます。等伯が秀吉に意見書を手渡そうとした時に、怒りをかい、打ち首になる寸前、公家の第一人者が、等伯を助けたい気持ちから、絵で勝負する場面などは、その一つです。
その絵が、審判の日をむかえました。また、ここでも、等伯を援助する人が、警護役ででてきております。
これらを、考えますと、弱い人を援助する、人たちがいる事も、生きる上で(方法として)大切なことです。できるだけ、多くの、援助する人を、見つけたいものです。必ず、役に立ちます。
もし、いないとすれば、「よい本」を見つけることです。捜せば、必ずあります。ただ、最近の、新刊本は、薄っぺらいものが、幅を利かせていると、感じます。こんな、くだらん本に惑わされない事も大切です。
やはり、古典には、それなりの、価値があると思います。大切な一生です。くだらん事に消費しない態度を持っていれば、人なり本なり必ず会えると、思います。