「あしたがあるさ」は、私の好きな言葉です。「が」と「あ」を入れ替えると、「あしたあがるさ」に変わるから・・・ではありません。あしたの株価がどうなるかを考えて、株を売買しなさいという戒めになるからです。もうひとつ。どんなにやられても、落ち込んでも、「あしたがあるさ」を口にすると、明日を生きようとする希望がわいてきます。
私は、50代の後半から山に惹かれ、日本全国の著名な山に挑戦するようになりました。九州のはずれの屋久島は、縄文杉で有名ですが、この島の宮之浦岳(1,935メートル)は、日本百名山の100番目の山にあたります。本州、北海道の山には、まだ早い3月25日に、鹿児島港からフェリーで屋久島に渡り、バスとタクシーを乗り継いで、淀川小屋入り口まで入りました。
その晩は淀川小屋で宿泊し、翌朝宮之浦岳から縄文杉を経て安房に下りる計画でした。ところが、小屋には誰もいません。無人小屋とは知っていましたが、小屋に泊まる宿泊者は、貴重な山の情報源として、私のような単独登山者にとって心強い味方なのです。
結局、広い小屋に一人ぼっちの夜を過ごしましたが、翌日の登山でも若い男性に出会っただけ。山頂には12時に到着し一休みした後、北の斜面を30分ほど歩いたところで、林の中に入りました。このあたりから積雪が道を覆っています。南の島で雪が残っているなんて・・・予期せぬ事態です。おまけに、登るときには雲海にみえた霧が行く手をふさぎ、あたりは真っ白で何も見えません。
持っていたテープで道しるべを残し、必死に道を見つけようとしたのですが、また元に戻ってしまいます。ついにあきらめて、雪の上に腰を下ろし、ぼんやりと霧を眺めていました。頭の中もまわりと同じように真っ白です。
2時間ほどそのような状態が続いたでしょうか。すると、突然霧が晴れ上がり、なんと目の前に立派な道標があるではありませんか。時刻は15時、予定より2時間も遅れています。はっきりしない雪道を辿って縄文杉に下るのは危険と考え、再び、宮ノ浦山頂から小屋に向かって引き返すことにしました。途中、花之江河付近から日が落ち、暗闇の中、ヘッドライトの電池切れを心配しながら、21時に小屋に戻りました。
翌日、宮之浦港から鹿児島港に向かう船上で、読み古した新聞から、私が持っていた住宅デベロッパーの倒産を知りました。気持ちは一瞬にして奈落の底に沈んでゆきます。目をつぶると、霧の中をさ迷い歩いた記憶と、海の泡が私を包み込んで行く幻想とが、交互に襲ってきます。
ふと目を開けると、晴れ上がった青空の向こうに、開聞岳が迫っていました。
「そうだ、明日はあの山頂から、海原に浮かぶ宮之浦岳を見よう」
「そして、有り金をはたいて指宿温泉に泊まり、豪華な海の幸と砂風呂で山の疲れを癒そう」
いつしか、「あしたがあるさ」を口ずさんでいました。