来年も何が起こるか心配である

Ukiyoさん
Ukiyoさん

 

 

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茶箱絵についてはコメント欄にメモ用として書いてあります

蘭字(らんじ)というスタイルの前身と思います

 

4件のコメントがあります
1~4件 / 全4件
Ukiyoさん

浮世絵が西欧の印象派の画家たちに多大な影響を与えたのは有名な話だが、西欧に知られるようになったルートは幕末から明治にかけて来日したオールコック、モース、フェノロサなどによる収集・持ち帰りと、幕末期のロンドン万博やパリ万博での紹介である。そして輸出用茶箱に貼られた浮世絵があることが考えられる

Ukiyoさん

私の所有する茶箱絵と同図が

つぎのキーワードでヒットします。

 

横浜桝屋茶箱紙駿河三保之松原.

 

江戸東京博物館のものですが

作家・ジャンル欄が空欄になっています。(そのためなかなかヒットしません。)

広重ですが二代か三代の判定、茶箱絵という言葉にも迷いがあるからかもしれません

茶箱紙という表現になっています

この図は私の所有するものと色彩がかなり異なります。

やや後に摺られたのもか。版が残っていて刷り上げたものか分かりません

多くある生糸のラベルと違って外国商館でまとめられて輸出されましたので保存用以外ほとんど残っていないと思います。

 

 

蘭字(ラベル) と呼ばれるものの前身と思っています(研究中)

左下にローマ字があります。

蘭字(らんじ)についてはグーグル検索して下さい

Ukiyoさん

申し訳ありません。画像についての個人的メモ[一時保存)です
 描かれている茶箱絵 広重 外題大日本名所図絵 「駿河三保の松原」
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オークションで浮世絵を落札 茶箱絵 「三保の松原」三代広重とあった。、
オークション出品者は浮世絵収集家で浮世絵の本も書いているようなので
二代か三代かの判定はほぼ確実と思っている。
しかし疑問が残った。
二代広重が茶箱に貼るラベルの絵を描いていたことは知っていた。
まさかオークションに出品されるとは思わなかった。それほどお目にかかれない。
広重 MASUYA TEA BOX MAKER YOKOHAMA 
蘭字(らんじ)と呼ばれる茶箱ラベルを知っていたので
落札価格が多少高くなってもチャンスを逃がさず頑張ろうと思っていたが
意外と安く落札できた.
競争相手が少なかかった。サイズは大判の倍 横文字入り、見たことがなく
オリジナルとは思えなかったのかもしれない.、
「蘭字」と呼ばれるスタイル以前の茶箱絵である。
その後一ノ関圭氏の「茶箱広重」もオークションで手に入れた。
内容は数少ない浮世絵の資料に基づき書かれているのには驚いた。
一番驚いたのは手に入れた茶箱絵と同じ絵が描かれていることである。
輸出用でしかも消費されてしまうため滅多に残っていることはないはずである
作者はどこで見られたのだろうか。東京芸術大学美術館か。ゴッホなどのように収集していたのでしょうか。
読者は気がついたかどうか知らないが、そこまで史実・資料に基づいているとは驚きである。
この茶箱絵には広重と落款があるので、慶応元年の離婚前後までに版ができ摺られ海外へ渡った
と考えられる。
広重についてWikipediaの説明には
「お辰22才の時、慶応元年(1865年)になると、20才という年齢差が災いしてか夫婦喧嘩により、
お辰と離別することとなり、以降は、森田姓を称し、横浜に移り住んで、喜斎立祥と号して
、外国輸出用の茶箱のラベル絵を描いたため、人々から「茶箱広重」と呼ばれ、特に外国人
からは重宝がられた」

別にWikipediaには微妙な表現の違いで 広重の襲名者たち のところには 
「藤懸静也によると、二代目廣重は広重の門人で俗称を森田鎮平と云い、号を重宣(1826年-1869年)
という。初代の養女お辰(16歳)と結婚したが、のち慶応元年(1865年)妻22歳の時、離縁となっている。
その後、しばしば横浜に出向いて絵を売り込み、外国貿易が次第に盛んになっている時期「茶箱廣重」
の名で外国人に知られた。」
とありますが離婚以前から横浜に出入りして、茶箱絵を描き活動していたと考えられる。
落款が広重でYOKOHAMAとあることからわかる。当然離婚すれば落款は返すことになると思う.
また三代は慶応3年からであるので、二代広重は離婚の慶応元年以前から茶箱広重として知られていたことになる、
この絵がオークションの解説通り
三代のものならコミックに描かれている茶箱絵は訂正されなければならない。
しかし離婚以前から横浜絵を描いていた。茶箱絵も描いていたと思われるし、そう思えば問題はない。
輸出用茶箱に貼られたもので、後期印象派の人たちにも影響を与えたといわれるものです
西洋の画家や美術商はこれら浮世絵を目当てに港に集まったようです
当然外国人目当ての富士山・芸者がえがかれている。一人男性の表情が絵に動きを与えているようで
茶箱絵としての効果があったことでしょう。
二代目広重が描いた輸出用の茶箱のラベルなど、海外輸出品に紛れ込んだ浮世絵は、ヨーロッパ
を席巻したジャポニスムブームが起こるきっかけとなった。
左下に MASUYA TEA BOX MAKER YOKOHAMA と書かれています
やがて大きく「JAPAN TEA」と書かれた「蘭字」)(「らんじ」と読みますと呼ばれる茶箱ラベル
に変化していきます。グラフィックデザインのもととなりました。
江戸から明治になり、お茶は生糸につぐ輸出量で日本を支えました

ヒットしました[平成23年12月15日)
資料名横浜桝屋茶箱紙駿河三保之松原. 作家/ 制作者. 所蔵館, 江戸東京博物館. 寸法, 38.0 *52.0 *.
資料番号, 99200082.
作家蘭 空欄 らっかんありますが二代三代表記ありません。茶箱絵でなく茶箱紙と表記

英文 翻訳
1862年からヨーロッパやアメリカへの輸出のために設計された茶箱の外側を装飾された色の木版画。
人気のデザインは、異なる色の紙と鳥類との花のモチーフが含まれています。
歌川広重3での例三代歌川広重(1843年?1894年)、歌川Kunitsuna歌川国?(1805年?1868年)、
歌川国松歌川国松(fl.後半19C)と川辺Gyousai河?暁斎(1831?89)もまだ存在します。

2.茶商標 《資料分類 Ab4-2》
 約600点。茶商標は、当館所蔵品などを利用して、井手暢子氏が『蘭字―日本近代グラフィック
デザインのはじまり』(1993年)を公表し、デザイン的価値とともに、その存在が広く知られるよ
うになった。蘭字の「蘭」は中国語で西洋を意味し、「字」は文字の意味で、西洋文字を配した
花鳥画のラベルの意である。
茶は1899(明治32)年に清水港での輸出が始まり、取扱が減少するまで、横浜港では生糸に次ぐ
輸出品であった。しかし茶は外国商館で加工・再製されたので、生糸のように横浜で商標がはぎ
取られるということはなく、当館所蔵の茶商標は、もっぱら横浜をふくめた貿易港から海外に
輸出された商標を、取引上の見本として帖に貼って残したものであり、コレクターなどによる恣意的
な貼り交ぜはない。茶商標は、80ポンド(ないし70ポンド)詰木箱を「ござ」=アンペラでくるみ、
麻縄などで縛ったものの側面に貼るものを最大として、40ポンド、20ポンド、5ポンドの茶箱用のほか、
1ポンド・半ポンドの「ペーパー」「カートン」用に分かれるが、当館所蔵品は、80ポンド詰茶箱用と
1ポンド・半ポンド「ペーパー」「カートン」用に大別される。

明治17年商標条例
 
1826-1869 幕末の浮世絵師。
文政9年生まれ。初代の門人。師の没後その養女と結婚,2代目をつぐ。のち離婚し,号を喜斎立祥とする。
横浜で輸出用の茶箱に貼付する版画をかいた。明治2年9月17日死去。44歳。江戸出身。姓は鈴木,のち安藤,森田。
通称は鎮平。別号に重宣,一幽斎,

横浜桝屋茶箱紙駿河三保之松原 検索

 
 chabako-e 茶箱絵
 CATEGORY: art history / paintings 
 
  
Colored woodblock prints that decorated the outsides of tea boxes designed for export to Europe
and America from 1862 on. Popular designs included motifs of different colored papers and
birds-and-flowers. Examples by Utagawa Hiroshige 3 三代歌川広重 (1843-94), Utagawa Kunitsuna
 歌川国綱(1805-68), Utagawa Kunimatsu 歌川国松 (fl. second half 19c) and Kawanabe Gyousai
河鍋暁斎 (1831-89) still exist. 

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