Sさんの思い出の続き

akainkoさん

当時は皆が貧しい中で頑張っていました、高度経済成長の真っ只中で

金の卵ともてはやされた時代でした、なんか苦しい時代の中にも

明るい希望見たいのがあるそういう時代でした。そういえば私が二十歳頃には、

大阪では大阪の万博、沖縄では海洋博覧会そういう大規模な催しなどもありましたね、

ベトナム戦争も終る気配などありません、そういう時代でした、そうこうして私は北海道の手前

青森まで12時間くらいとうとう立ちっぱなしでした、

後にも先にもこういう経験をしたのはこのときが初めてでした。

それから北海道に行くために青函連絡船に乗ることになりました、

 

青函連絡船の中ではなにも覚えていません、鈍行列車の疲れがたまっていたのか

ひたすら寝ていた記憶しかありません。よっぽど熟睡していたのか

連絡線が着いたのも気がつかなくて、船員に起こされるまで何も覚えていません、

起きてみたら周りには誰も居ません、自分だけでした、

たぶん船員はこの青年は何をしに北海道まで来たのか、

不思議に思われたかもしれません。それで連絡線で函館まで着ました、

はーるばるきたぜ函館と普通だったら鼻歌でも歌う気分でしょうが。

その時はそういう余裕とかは何も無い精神状態でした。

とに角今夜泊まる宿を探さないと一月の北海道で野宿でもしたら。

凍死間違いない誰一人知り合いのいない函館で、宿を探すのが先決です。港の近くでしたから、

 

探せば宿くらい見つかると思い、1時間くらいぶらぶらしたらありました。

そこで宿を見つけて何とか安心しました。自分の行ったのは一月でしたので、

あの当時の北海道では観光シーズンのオフでこの時期には観光客はほとんど

地元では見かけないといっていました。それが幸いして宿が簡単に

見つかったのはラッキーでした。これで一安心と心も何とか落ち着きました、

それから周りの景色などを見る気持ちがわいてきました。

 

宿の中を見渡しても観光客は自分一人しか居ないのかと思うほど、

閑散としていました、案の定仲居さんらしき人に聞いたら客は

お兄さん一人だけだよといわれました。

だからどこでも好きな部屋に泊まってていいよってそういわれて通されたのは

普段宴会場に使われているらしい大広間でした、

兄さん今日はここにとまって言いよってそういわれ、

まるで旅館を一人で貸しきったような気分でした。

仲居や板前さんもどこか暇を持て余してるようなので、

じゃ俺一風呂浴びてきますから、その後食事でもしながら

皆さんも一緒に飲み会しましょうか

 

 

といったら、皆大喜びしてそれがいい、そうしよう、

そうしよう今日は店仕舞やそういいながら宴会になりました、

ほんと、うれしかったですね、こんなことになるとは夢にも思いませんでしたから、

人の心の素朴さや暖かさを感じました。なんていうか沖縄に居るような人情豊かな

土地柄に接したような気分でした。そういえば北海道でも本州のことを内地とか、

本土から来たのとかいっていました、そういう呼び方は沖縄だけかと思っていたのに、

本土と聞いたときにはびっくりすると同時に何か北海道に身近な親近感を感じました。

あれだけおいしいものを食べて、なおかつ宴会場みたいな大広間に寝かせてくれて、

いったい宿賃はいくら取られるかチョッと心配でしたけど、宿代払うとき、

兄さん昨日は楽しかったねって言ってくれました。宿賃のほう、ほんと驚くほど安かったです。

 

ほんとにこれだけでいいのかと思うほど安くしてくれました。お世話になりました、

又来ますといって宿を後にしました。さてこれからどうしようかと、

思案しながらとに角近くの駅に向かうことにしました。駅についてしばらく考えていましたが、

あてもないことだし、上野駅から乗ったように、北海道縦断ができるような

各駅停車の鈍行に乗って気に入った場所で途中下車しようと適当な列車を選んで乗り込みました。

しばらく列車に揺られて1時間ほどウトウトし ていました、

車窓から北海道の景色をゆっくり眺められたのは列車に乗ってからでしたので、

改めて北海道の広大さに気付き、見とれていました、

住み慣れた沖縄から来た青年から土地とか面積とかただ広いといわれても

実感も何も無いわけで、見渡す限りの、地平線のはて

 

 

どこまで行ったら先なのかどこまでも、どこまでも続く、広さ、沖縄では土地の広さは、

こんなものかすぐ実感できるが、ここでの広さは、半端じゃないな、そう実感しました。

それから、何時間立ったのか、辺りは暗くなっていました、夜という感じではなく、

たぶん午後五時を少し回ったくらいでしたが、人家では明かりがすでに灯っていましたから、

北海道では冬になると日が暮れるのが早いのかなと思いました。

 

 

あの当時の北海度では、今より人口はずっと少なかったと思います。一歩郊外に出ると、

これだけ広い、広大な土地のどこに人が住んでいるのかと思うほど、

人家の明かりがこっちにぽつんと又しばらく行くとこっちにぽつんと、

飛び飛びなのです、それも何十キロごとに、ポツリ、ポツリと人家がある、

ここに住んでいる人々はどんな生活、どんな、暮らし方をしているのかなと、

あまりにも故郷の沖縄とかけ離れているふとそう思いながら列車に揺られていました。

何時間かして、どこかの駅に降りたと思います、どこの駅だったか、

駅の名前も降りた場所もわかりませ、又その日どこに泊まったのかも、

あまり良く覚えていません、

 

次の日駅の近くでタクシーに乗ったと思います、少し観光名所でも回ってみるかと

思ったのはいいのですが、観光名所といっても何の知識も無いわけで、

果て困ったなと思いながら、そのときふと、霧の摩周湖と言う歌を思い出したのですね、

今は懐メロになった、布施明が歌っていたあの霧の摩周湖と言う歌です、

いや私って単純ですね、今までの旅全て歌にまつわる旅なのですね、いや、

ほんとそう言われるとそうですね,ほんとに発想が単純ですね、

 

というわけで観光地として選んだのが摩周湖です、そこを目的地として

タクシーで摩周湖に向かいました、途中あっちこっち見て、

後三十分くらいで摩周湖につきますよタクシーの運転手が言うので前を見ると

直線道路に差し掛かっていました、その時びっくりしたのなんのって、

直線道路といっても半端な直線道路なんかではないのですね、

何十キロと地平線の先までの続くのかと思うほどに長い、長い道、

こんなに長い道があるなんてそれも曲がりくねった道しか見たこと無い私にはほんと

言葉もありませんでした、

 

こんな直線今まで一度も見たこと無い、この長い道にもびっくりしたが、

途中まで行くとなんと歌にもあるように霧の摩周湖に霧、

この直線の道に霧が出てきて、それこそ真昼だと言うのに周囲に霧が立ち込めて、

ぜんぜん前が見えない、それこそ一寸先は闇の状態、

これでは残念だが引き返すしかないのか、前が見えなけでば、

車も走れ無いはず、そう不安に感じつつ、運転手の顔を見ると、

動揺してあわてる素振りも無い、果てな、そう思って大丈夫ですかって聞くと、

初めて納得しました、雪国には雪国の知恵があるもんだと妙に感心したのお覚えていますハイ?

 

実は仕掛けがあったのですね、道路の境界線に電球みたいのが仕掛けてあってその

電球が点滅をする、車が道をそれて事故を起こさないように電球の道が

丁度飛行場の滑走路のようにできている、なるほどそうだったのか、

納得しました。霧の摩周湖ってほんとに霧が立つんですね、

あれは歌だけの話かとと思ったけど、事実だったんですね、

歌には嘘が多いと思っていたんですが、いよいよ摩周湖に到着しました、

入り口の近くでアイヌの人らしき人々がいました、熊の彫り物や工芸品、

民族衣装や民芸品とかそういうものが並べてある、お土産品店がありました,

熊の彫り物の実演もしていました、

 

若い女の人もたくさんいました、どこか沖縄の女性と似た雰囲気を持っていました、

遠い昔アイヌの人も沖縄と同じように差別されたと聞いていました、

そういう歴史的共通点がどこかにあったかとその時感じましたね、

そこで少しお土産になるのを何点か買い求めて、さっきの行ったように

観光シーズンオフだったので、ほんとに私達以外、人がいるのかと思うほど、

人影もまばらでしたね、それだけに余計摩周湖をじっくり見たときは、

神秘的な容姿を漂わせていました、それと神秘的なマリモ実物みました。

摩周湖の回り真っ白な雪、一面真っ白な雪、私が二十歳のときに見た雪

今でも鮮明に覚えています、でも、何故かもの悲しい印象も残っています、

美しい中にも、もの悲しい雰囲気が漂っていました。

 

 

それから、何時間かたって霧の摩周湖を後にしました。後何をしたか覚えていませんが。

多分どこかに宿を取って、その日一日ぶらぶらしたと思います。

翌日は有名な温泉地に一泊したと思います。温泉地ではどこも行かずに、

温泉地の周りをゆっくり、歩きながら散歩、散策、そういう感じでぶらぶらしていました、

三十何年か前の温泉地、近代的な建物、ホテルそういったピカピカしたものは

余りありませんでした、風情がありました、オッチャンはあまりピカピカしたものは

あまり好きではないな、どっちかというと江戸時代の宿場町。

そういう寂れた感じのモンが好きだな、今では有名になった自分が二十歳のときに

尋ねたあの温泉地、当時は、まだ江戸時代の雰囲気を 残していました、

今では超近代的に変わったと思います。観光シーズンオフの温泉地も何か

郷愁を感じるものがありました。ここもやっぱり人影はまばらでしたね

 

ここの温泉地で一日過ごし、駅で釧路に向かったと記憶しています。

途中どこかで降りたような記憶もありますが、覚えていませんね、

このときも各駅停車の鈍行列車を利用したと思います。私は北海道に来て何故か、

この鈍行列車が好きになりました。あぁ、そういえば鈍行で釧路に行く途中、

珍しい物を見ましたね、いや、ここで見る事が出来るとは、想像もしませんでしたね、

実は蒸気機関車がまだ走っていたのです、オッチャンの働いていた

大阪でも蒸気機関車なんてもう一時代昔の骨董品的存在でしたから、

北海道で蒸気機関車を見たときは感動しましたね、それもちゃんと

人も乗せて走っているではないですか、貨物ではなく、

人間が乗ってちゃんと走ってましたね、あの力強く噴出す蒸気機関車の煙、

まさしく本物です、明治、大正にタイムスリップしたような気分でした、

自分の目を疑いました、ハイ、鈍行列車を利用してよかったとその時つくづく思いました、

(教訓、旅は鈍行に限る)

 

 

それから、しばらくして、目的地の釧路に到着です、もちろん途中下車です。

降りてぶらぶらした記憶しかありません、釧路の運河、

大小さまざまな船はその当時頻繁に行き来していました、(私の行った当時は船の行き来は

頻繁だったそうですが、現在はあまり無いみたいです)

それとあの有名な倉庫外貿易港と言う感じでしたね。

あっちこっち見たと思いますが、印象に残っているのはそれだけですね。

ハイその日のうちに釧路から電車に乗ったと思います。

もうソロソロ大阪に帰ろうとおもっていましたから、

(旅費も残り少なくなって心細くなっていた長居するとフーテンの

寅さんみたいにならないかって)

色々考えた結果帰ることにして、函館まで来たと思います。

多分ここ函館から大阪に帰ったと思うのですが、ここで記憶がぷーつり途切れているのです。

 

船で帰ったのか飛行機で帰ったのか、全然思い出せないのです。

これが私の成人式にまつわる、二十歳のときの思い出の顛末です。

遠い昔と言うより、つい昨日のような気がします、

 

 

追伸:大阪のアパートに帰った後、しばらくすると工場の奥さんが訪ねてきました、

自分が悪いのですから、怒られるのを覚悟で何言われても、

何しても素直に聞こうそう思って黙っていましたね。すると以外にも奥さんが、

涙を浮かべて、仲尾君、何があったの、こんな書置き残してどこで何してきたの、

心配していたのよ、途中からは涙声になっていました、奥さんの涙を見て、

改めて自分のやった重大さと言うか、無謀さというか、社会人として

許されない行為に黙っていました、少し落ち着いたので、今までのこと、

北海道に言ってきたことなど、話しましたね、奥さんも時々笑いながら

黙ってうなずいていました、最後にもう黙って二度とこういう事はしないで、

何でも相談しなさいよって、行ってくれました、

そして、私もほんとに迷惑かけてすみませんでした謝りましたね、

今回のことは、ほんとに反省し二度とこういう事はしないって誓いました、

私も人に涙を浮かべて、説教されたのは、後にも先にもこのときが初めてでした。

(奥さん、ごめんなさい、そして、ありがとうございました。感謝)

 

 またまた話が長くなりました、とりとめのない話が延々と続いてしまいました。

今日はこのへんで続きは次回お話ししたいと思います。


 

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