父ちゃん会の愛すべきSさんが亡くなりました

akainkoさん

昨日私の友人で長い間親しくお付き合いさせて貰っていたSさんがなくなりました。

長い闘病生活(奥さんは9月で満3年になるといっていました)でした、

当初そんなに入院が長くなるとは誰も予想していませんでした、一週間ぐらいで

退院できると誰もがそう思っていました。その前日いつものメンバーと一緒に

遅くまで酒を飲んでいたそうです。本人も軽く考えていた気配がします。

いつもと同じ普段通りの生活でした、入院中何度か見舞いに行ったときは、

少しやつれていました弱気にないっていました、

これも入院が長引いているせいだなと思いましたが、

頭はしっかりしていていつものTさんでした。

 
これがこういう結果になるなんて、本当に残念です、何にも力になれなくて、

心残りです、ほんとに頼りなくて申し訳なく思っています。

Sさんとのお付き合いも20年近くなります、F団地に住んでいた頃からのお付き合いです、

団地の風紀や色々な問題が持ち上がっているとき、団地をもっと住みよい

環境にしていこうと言うことで、何名かの団地のお父さんたちが集まって

父ちゃん会を結成した頃のお付き合いでした、Sさんも発起人の一人でほかに

自治会の活動にも積極的に参加していました、

 

あの頃は父ちゃん会のメンバーも若くてもちろん父ちゃん会の

活動も子供中心の活動をしていました、色々な活動もしました、

数えると切りがありませんが、たとえば四号棟の餅つき会、

運動会、カレーパーティ、キャンプ(はなれ島出のキャンプでは

船にキャンプ用のテントまで運んでいきましたね)

4号棟のほとんどの子供たちが参加した楽しいキャンプでした、

 

横田ビーチでもキャンプしましたそう、そういえばそのとき危う

5歳と6歳の息子が、イルカだったか鯨だったか良く覚えていないけど、

そんな形をした浮き袋に乗って遊んでいるうちに、

今まで目の前にいたのがチョッと目を離しているうちに潮に流され

見る見る沖に流されていくのを見たときは血の気が引きました、

ふと、どういうわけはここで溺れて流されたら遠い名護湾の近くまで流されていく

それが頭をよぎりました、ほんとに発作的に頭をよぎりました、

幸いにそこの海は遠浅でその日は休日で、たくさんの人がビーチにいたことも運が良かった、

風に流されてどんどん沖のほうに流されていく、

気だけあせってなかなか浮き袋まで追いつかないわけで、

ちょうどそのとき流されていく浮き袋の近くで大人が水中眼鏡をつかって泳いでいました、

その方が浮き袋をつかんでくれたのです、

 

私たちのいるところまでつれてきてくれたのです、本当に命拾いしました、

万が一そのまま流されていたらと思うとぞっとします。そのとき助けてくれた人、

あなたは子供たちの命の恩人です、まだ若い人でしたが、

気が動転して名前もわかりません、本当に助かりました、

その何ヶ月か前に名護病院か読谷の病院か記憶が定かではないが多分溺れた

子供だと思うのですが、救急車で運ばれてくるのを見ました、

親らしい人も付き添っていたと思います、手遅れで助からなかったそうです、

後から聞いた話ですが、人の運命には運、不運あると言うのは良く聞く話です、

でも現実に目の前で起こると、どうしようもない気持ちになります。

 

 

話が横道にそれましたが、Sさんや父ちゃん会のことを今振り返ってみると

いろいろなことが記憶に甦ってきます、もうこんな年月が立つのかほんとについ昨日のようです。

Sさんの事をオトゥ(父ちゃん会では愛称こめてそう呼んでいます)とも、

付き合いの中でいろいろなことがありました、初めて私が三腺に興味を持って

三腺の手ほどきを受けたのもSさんのオトゥでした、

(私が初めて三腺を手にしたのが平成2年10月10日です、何故か年月日を覚えています、

 

不思議ですね)Sさんを中心にして有志が集まって三腺の同好会見たいのを作って

週に一回曜日を決めて練習を始めました、練習場所は自治会の集会所だったと思います。

その時のメンバーはSさんと私、それにMさん,Tさん、

Mさん(Mさんも若くして亡くなりました、胃がんだったそうです)初めのうちはなにしろ

三腺超初心者でしたので音が出るのがうれしくてテンテン,トンテンやっていました、

Sさんには三腺の音の出し方、テンポ、声の出し方などそれこそ手取り、足取り、

教えていただきました、後で聞いた話しですが、初心者に教えるほど難儀なことは無いそうです、
そんなことは知らずに隣近所によしみで教えてもらって感謝の言葉もありません。

最初に教えていただいた曲が確か安里屋ユンタだったと思います、

それ以外にも10何曲か教えてもらいました、

今でもその楽譜(沖縄では工工四・・クークーシーと呼びます。 )は使っています。

 

 

一番の思い出は練習を始めて半年以上たった頃四号棟で月見会がありました,

その時にメンバー全員で演奏会をやりました、

三腺さわったこともない初心者のメンバーが技術的にはまだまだだったと

今考えると思いますが、その時はいっぱしの三線費歌者の気分で何とか弾く事ができました、

終わったあと拍手喝采(のように聞こえました)でしたね、ハイそれが私のサンシン苦労話

の始まりです(その話は又後日)Sのオトゥとの思い出話他にも一杯あります、
 

 なぜかSさんの思い出を書き始めるといろいろな出来事つい昨日のように頭をよぎってきます

 話が長くなりそうなので続きは次回お話ししたい思います。

ではまた

前回のSさんとの思い出の続きです。

 

子供達も大きくなって自治会の子ども会も後のメンバーに引きつきでわれわれメンバーは

親睦会として新しく父ちゃん会を結成しましたね、

その時のメンバーがSさん、Mさん、Uさん、Tさん、Mさん、Aさん、Mさん、

Mさん、そして私、その後Uさん、Mさんの二人はメンバーから抜けて残ったのが

現在も続いているメンバーです。週一回第三土曜日に集まって親睦を続けています、

 

この父ちゃん会のメンバーでも色々楽しい思い出がありました、

一番の思い出は旅行です。(旅行積み立てしていました。)で貯まった積立金で旅行したこと

二年か三年のペースで色々なとこに行きました、九州の大分、別府温泉、金沢、

最近行ったところは北海道、別府温泉に言ったときは父ちゃん会初めての旅行と

言うこともあって、80万近くの予算(今、考えると相当な金額)持って行ったと思います、)

 

大金持って行きました最初で最後の贅沢な予算あっちこっちの観光名所も回ったと思いますが

(高崎山しか覚えていない?)何故か記憶に残っているのが、

ホテルの中でコンパニオンを呼んでドンちゃん騒ぎのやり放題、確か、

分相応のご馳走もたくさん出ていたと思うけど、何を飲んで何を食べたのか思い出せない、

とにかく騒ぎっぱなしのシーンしか記憶にない、そんな中でSさんのオトゥが

一番もてていました、オトゥの隣のコンパニオンが二人もついていました、

まさに両手に花の有様、こっちにはコンパニオン一人に二人の男、

やっぱりSさんのオトゥのこと、どこかの社長とコンパニオンの勘でそう悟ったかもしれません。

そうすると他のメンバーは社員、社長のお供できた部下と言うことになります。

 

(あぁー納得いかない、同じ金出しているのに)とにかく一番いい思いしたのは

Sさんのオトゥだったと思います。そうこうするうちに宴もたけなわ、

そろそろコンパニオンとの楽しい時間も終わりに近づいた頃、

お開きにしようとしたそのとき、まだ飲み足りない思いを察したのか、

それともめったに無いカモと思ったのか定かではないが、(コンパニオンの術中にはまったかも?)

 

最上階のラウンジに飲みに行こうという話しになって交渉役を引き受けたのがMさん、

じゃぁいくら、いくらの予算内でということで話はまとまったようです、

しかし予算内ですまないのが世の常、(後で知って後悔すくことになる)

その日はこの世に生を受けて初めての豪遊,楽しければあとは知らない、


旅の恥は何とかでその日は夢の中で何時に寝たかわかりませんでしたねハイ。

で、いよいよチェックアウトして楽しかった思い出を残しかえる段になって、

今まで楽しく遊んだ会計の精算が残っています、まぁ予算はたくさん残っていることだし、

帰りのお土産も残った予算で買って帰れる。そう楽観視していました、

さにあらず持ってきた予算のほとんど全部取られてしまいました、

これにはメンバー全員あいた口がふさがりませんでした、呆気に取られた表情とはこのことですね、

 

しかし予算内ですんだのは不幸中の幸いと気を取り直して

(高くついた勉強、予算でお土産も買えるという夢も消えて)

沖縄に帰る飛行機に乗って別府温泉を後にしました。

(追伸、コンパニオンが安谷屋さんの事を

間違いを教えてもラザニア、ラザニアと行っているのが印象に残っています)

 

それから北海道に行ったときもいろんなパプニングがありましたね、

北海道に行ったのも 実に20年ぶり私は実は若い頃に北海道に言ったことがあります、

丁度二十歳の頃その頃私は大阪の東淀川の近く上新庄と言う所で町工場の(経営者は在日朝鮮人)

ブラスチックの金型整形の仕事でプラスチックの製品を作っていました、

12時間勤務の夜勤専属でした、早い話が仕事が終わると帰って寝るだけの生活でした、

その頃同級生が大阪の周辺で何名か仕事をしていましたが、

チョッと仕事がきついからといって次々に沖縄に帰っていきました

(本土の生活になじめなかったのも何名かいました)ただ仕事がきついからといって

帰っていったのもいました、それは私には言い訳にしか聞こえませんでした、

(たったこれしきのことで根性なし)正直言ってそう思いました。

 

それで自分は12時間勤務でも何でも意地でも沖縄には帰らない、根性のあるとこ見せてやる、

お前らとは俺は違うんだぞ、そう若気の至りで粋がっていました。

今考えると恥ずかしくなるけど、その頃は心底そう思いました、

しかし帰りたい気持ちは心の隅にあったように思う。意地と根性だけで何とか持っていました。

確かに仕事はきつかったな?食事を取る以外は機械のそばから離れられない、

機械の調子がおかしくなると納期に間に合わない、

(何千万の機械だったがよく故障した)機械を止めると大変な損害、

零細企業の悲しい宿命で従業員も自分を入れて、他に一名、

後社長と奥さん、そういう町工場で夜勤は私一人で機械見ていました。

夜中深夜。話相手もいない工場と言うのはさびしいもんです、

聞こえるのは機械の音だけ、落ち込んだ気分のときは普段の倍以上落ち込み、

気がめいります、そう言う落ち込んだ気分のときでした、

世間が成人式のニュースとかでで華やいでいたときに、そういえば俺も二十歳になったんだ、

 

ふと、そう思ったときに無性にむしゃくしゃしていました、

ふとその時二十歳の記念に何かしたい衝動に駆られたのを覚えています、

成人式に出席できない代わりに、俺は二十歳の時こういう事したな,そういうあいまいな、

自分だけの思い出を作りたかったのかも知れないな、

今思うとそういう気持ちが強かったような気がするな、それで、工場の社長や奥さん、

従業員に何も言わずに、ただ失踪したと思われないために、

自分のアパートに書置きだけ残していきました、どういう文面の書置きだったか、

全部は思い出せないけど、しばらく旅に出ます、無断で休みますけど、又、帰ってきますとか、

そのような文面だったと思う、書置きだけ残して行く当ても無くアパートを

後にしたのを覚えていますね
 

、ほんと当てなどぜんぜん無かったわけで、新大阪駅からとりあえず上野駅に向かった、

あの頃東京といえば上野駅しか思い出さなかった、それと歌手の井沢八郎のあぁ上野駅と

言う歌がはやっていたせいかもわからない、今となっては,

兎に角上野駅を目指していきました。上野駅の外観は今でもハッキリ覚えています、

西洋風なつくり、レンガで造られた正面入口だったこと覚えています。

さて、これからどこへ行こうか、考えている内にそこで北海道だけはいつか行ってみて

見たいそういう気持ちがどこかにあったので、迷わず北海道に行くことに決心しました、

当時新幹線とか無かったと思うけど。

 

自分が乗ったのは夜行列車だったな、(上野についたのは夜も遅い時間でした)

結局切符が取れたのは鈍行列車のそれも各駅停車のやつでしたね、

(それが何時間で着くのか聞きもしないで、どれに乗っても大して違いも無いぐらいの

計算しかなったのです、それに、急ぐ旅でもないしはっきり行ってどこでも

良かったかもしれません、気に入ったところがあれば途中で降りてもいいかなと

思っていましたから、気にして居ませんハイ。)切符を切って列車に乗ってみて、

 

何じゃこれはと思いました、列車の通路にまで人があふれていて、まさに、

足の踏み場も無いと行った状態なのです、いまさら後悔しても始まらないと思って

覚悟を決めて乗りました、無謀なことをやったと後悔しました、

兎に角自分の居場所を見つけないといけないと思い、必死になって探しましたが,

見つかるわけも無い、この先どうなるかという思いが一瞬しましたけど、

その時人と人の隙間に人間一人がやっと立てるぐらいの隙間を見つけたんです。

とにかくそこにもぐり込みました。とに角立つには立てたんです何とか、

周りを見回すと、人が通る通路に人が座って寝ている人もいれば、

新聞、雑誌読んでいる人もいる、中には弁当広げて食べている人もいる自由気ままに

思い思いのことをしています。

 

私は、というと列車が動き出してからもズッと吊革につかまって立ちっぱなしです。

一時間立ち、二時間がたっても誰も席を立つ様子も無い、さすがに疲れもピークに

なってきまして、座るとこは無いか目を皿のようにして探しましたか、

結局無駄骨です、後でわかったことなのですが、足の踏み場も無いくらい込んでいたのは、

実は、正月に故郷に帰れなかった人たちの帰郷ラッシュでその日に集中したみたいなのです、

もっと速い急行にも乗れない貧しい人たちで溢れていたんでしょうね,

 話は長くなってしまいましたので、今日はこのへんで

続きは次回お話ししたいしたいと思います。

 

最後までお読み頂きありがとうございました。

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