「名言集」とは一線を画す
古人の言葉が処世の智恵に転化する、という考え方をする人がいる。
その古人なるものが乱世の英雄豪傑だったら歴史好きには、それだけでもう辛抱たまらんわけである。政治家や著名な経済人が何事かあってコメントを求められたとき、よく「信長がこう言った」だの「龍馬がかく語った」などと言うのもこの伝である。
が、歴史に残る言葉というやつはなかなかに曲者(くせもの)で、本人の発言にちょっとした裏があったり、一部だけ摘出されることによって真に伝えたかった話とは全く正反対の内容になっていたりもする。
それには後世の研究家の責任もあろう。我々が前記の政治家「歴史人物談義」に何となく胡散臭(うさんくさ)さを感じるのは、多くが手垢(てあか)のついた人物評伝の域を出ず、それでいて自分を歴史上の変革者になぞらえるといういささか僭越(せんえつ)で小狡(こずる)い思考の流れが垣間見えるからではあるまいか。
さて、本書『名将の言葉』である。著者本郷和人という人もなかなかに曲者の研究者で、言葉の採取には細心の注意を払っている。たとえば、『名将言行録』にある上杉謙信の驚くべき言葉、
「われ毘沙門を百度拝せば、毘沙門もわれを五十度か、三十度拝せらるべし」
神仏をあつく敬い、特に武神毘沙門天を崇拝しているはずの謙信が、私が百回拝めば毘沙門天だって五十回や三十回は拝み返している、私あっての神仏に過ぎぬ、とドライな発言をしていることを指摘する。また、坂本龍馬が姉の乙女へ宛てた手紙、
「中々こすい、いやなやつで(だから私は)死はせぬ」
有名な「日本を今一度洗濯いたし申し候」の後にある言葉だが、己れに対するその尋常ならざる茶化し方は、逆にあまり注目されていない。
本書の特徴は、これのみに留まらない。言葉の対比として、発言者の愛好した品を、その中で息をしたであろう美しい風景を載せ、別な角度から「内面に切り込む」手立てまで計算されているのである。凡百の「名言集」とは一線を画する本といえるだろう。