サイコさんのブログ

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   にほんブログ村   現在 51位   士業  (弁護士、会計士等)   現在 29位ゴールデンウィークというのに仕事である 病院も連休中はやってないので、ガーゼの交換も後4日ほど待たなくてはいけない。かみ合わせは、流石に慣れてきた感じではあるが、ガーゼの方は、やはり日にちが経つと今度は何日も替えてないパンツみたいなもので、気色のいいものではない。まぁ、そんな中、任意で入ってた保険の方から早々に保険金が振り込まれていたので、ホッとしていたのだが、家の排水溝が壊れたらしい まだまだ金のかかることばかりである。この上、職も失くしてしまったら・・・ あー、そういうネガティブなことは無し無し。兎に角、前向いていくしかない!ポストヒュ-マンの人間論  後期ルーマン論集  ニクラス・ルーマン  村上 淳一/編訳結局、ハバーマスの公共性論を摂取できずに、その論敵であるルーマンのものを読んだ。ルーマンのシステム論は、まぁ、かなり簡単に言ってしまうと、表があれば裏があるのが道理だろう、なのになんで表(サフェース)ばかりおまえ(ハーバマース)らは論じるんだ、ということだろう。ここで、特に槍玉に挙げられるのが、まず、フッサールである。ここで想起しなければならないのは、フッサールのウィーン講演(1935年5月7日、10日に行われたウィーン文化連盟における招待講演「ヨーロッパ的な人間の在り方の危機と哲学」)から、60年後となる、ルーマンのウィーン市廰で行った講演(1995年5月25日「近代科学と現象学」)である(ポストヒューマンの人間論、1近代科学と現象学 - P1及び訳者注)。ルーマンはここでフッサールが講演した当時の時代背景から、フッサールのその講演の意義を解体していくのであるが、フッサールの超越論的現象学を「記述し直」すことで、35年当時の有効性を95年の今の有効性へと「内部転写(リ・エントリー)」するのである。フッサールは物の表向きと射影によって、そして一旦自己の判断を停止(エポケー=棚上げ)することで、世界を捉えようとした。そこには〈超越〉を必要としたのだが、時代は60年を経て、そして人類が月に到達して20年余を経たルーマンにとっては、それは最早〈超越〉など必要としない所与となるのである。地球から見る月は、同じ表側をしか見ることができなかったフッサールとは違い、ルーマンはアポロに乗って、難なく?月の裏側を確認できてしまっているのである。そして、かなり端折って、間主観性という概念である。少し長いが、本書からルーマンの批判を抜粋してみよう。 - さまざまの主観性の「間」が何を意味しようと--「関係」だと言おうと、部分的な重なりだと言おうと、1800年ごろ好んで言われたように「融合」だと言おうと、今日もっと不細工に、しかし勿体ぶらずに「相互滲透」だと言おうと--いずれにせよそれは二つの可能性、すなわち肯定的な可能性と否定的な可能性をもつ。間主観性は、合意という形をとることもあるし、不合意という形をとることもある。合意に対しても不合意に対しても、こういう造語を用いてよければ「間性」を認めないわけにはいかない。諸主体が合意において一致することも、不合意において一致することもありうる。別の言い方をすれば、合意にとっても不合意にとっても一致は必要なのだ。したがって、同一の対象から成る世界が前提とされていなければならない。コンクリートで固められた空港滑走路が野菜畑に変えられるかどうか、放射能を帯びた水がオードコロンに変えられるかどうか、いずれにしても、それは合意又は不合意の問題である。間主観性は、合意と不合意の分岐のための構造であり、間主観性という概念は、どちらの道を選ぶかの手がかりを予め内在させているわけではない。他ならぬハーバマースが、はしなくもその実例を提供している。かれ自身のコミュニケーション実践は、[合意をめざす]努力によって不合意を生む結果になっているのであって、そうすることによってのみ、かれは、反対の理論提案との比較において、新しい了解達成パラダイムを明確化しえているのだ(同書、6間主観性かコミュニケーションか、P172-173)。まぁ、取り敢えずこれだけ抜粋しておいて、主体と主体の「間」という構造をわざわざ概念立てて理論構築しなければならないほどに、理論武装の「ツール」としてしか機能していない、とルーマンは批判しているわけである。このブログでルーマンを語り尽くすことはできないのであるが、極めて簡単なサイコ的な解釈をすると、ライプニッツのモナドロジーに近いかも、というところである。ただ、ルーマンの言う「システム」には、観察するためにどのシステムにも「窓」は存在するので、その点は大差あるとして、社会(ゲゼルシャフト)システム内に、窓のあるモナドとして多数のシステム(主体)が存在している。システム同士は単独に存在し、互いに何らかの「間」を共有するわけではない。何らかの作動によって観察したものを独自にシステム内に内部転写することで、システムは動的に変化していくのである。そうした自己塑成的なシステムは、そうしたオートポイエーシスな主体と主体は、互いにコミュニケートするわけではなく、コミュニケーションシステムにそれぞれがアクセスすることで、コミュニケートするのである。あくまで、それぞれのコミュニケートはコミュニケーションシステム内で処理され、その了解はオートポイエーシスな主体内で自己塑成的に暫時内部転写されていく、ということである。極めて生物学的な理論の社会学への応用なのであるが、生物(人間)だけが社会システムの構成者ではない。主体(人間)が主体(パソコン)とコミュニケーションシステムを介してブログを作成する場合に、コミュニケーションシステムを介してコミュニケートすることで、ブログが出来上がるようなこともあるわけで、人対人の単純性からも逃れて、単純なヒューマニズムを排斥して成り立つ理論なのでもある。これが後期ルーマンの社会学の一片である、ということにしておこうか。
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