「名器」に取り憑かれた男
本書の中でついにヴァイオリンドクター、中澤宗幸さんからヴァイオリンオタクの称号を頂いた。なんと名誉なことであろう。
4歳からヴァイオリンを始めた僕にとって、この楽器との付き合いは運命みたいなものである。無論、演奏家は皆、楽器についてある程度学び知っているものだが、僕の場合はビョーキの域かもしれない。一日で最も愛する時間は夜、ソファに座り、スコッチのグラスを傾けながら楽器を磨き、名器の写真集を眺めるひとときなのだから。
小学生のころから、弓の毛替えやメンテナンスのために行く楽器屋さんの匂(にお)いが好きだった。木、ニス、膠(にかわ)、松やに…。朝、持参した楽器が仕上がる夕方まで、職人が木の箱を手に黙々と作業するのを飽きもせず見つめていた。工房に預けられていた楽器たちを手にしては、作家名とフォルムの特徴、音色を学んだ。
中澤さんとの出逢(であ)いは25年前、僕が大学進学で上京したころにさかのぼる。故郷・大阪の楽器店とは違い、そこは東京。彼の工房には世界からあらゆる名器が集まっていた。一流演奏家らが来日しては、彼に調整を頼む。運が良ければ工房でそれをこっそり弾かせてもらえる。人生で初めてストラディヴァリウスを見たのも、彼の工房だった。
デビューしてしばらく経(た)ったころ。僕は彼から一本のイタリアン・オールドのヴァイオリンを手渡された。「レコーディングで弾いてごらんなさい」。以来ずっと、その楽器を無償で貸してくれた。ストリオーニ-ストラディヴァリの後継者の作品だった。
さらに5年前、彼の工房で僕は運命の出逢いを果たす。本に詳述されているので割愛するが、僕はいま、毎日ストラディヴァリウスを抱き“彼女”の美声を独占させて頂いている。本当に夢のようだ。
本書は僕と同様、ただただヴァイオリンに取り憑(つ)かれた男の話。それ以下でも以上でもない。が、たった一つのことにこれほど夢中になることが、どれほど美しく尊いことか…。ヴァイオリンに興味のない方にもおすすめしたい。筋金入りのオタクとして。