米格下げめぐる対立、S&Pからの電話が発端
【ワシントン】8月1日、党派に属さない米議会予算局は、新たな債務上限交渉により、少なくとも2兆1000億ドルの財政赤字を削減する方法について書かれた11ページの報告書を発表した。議会事務局が報告書の精査に追われるなかで、格付け会社、スタンダード&プアーズ(S&P)のある関係者は、赤字見通しの前提について詳しく聞くために秘かに電話をかけていた。
S&Pによる米国債格下げのニュースを伝えるニューヨークのタイムズスクエアの電光掲示板
その4日後、S&Pは、この電話でのやりとりの一部を根拠として、米債務の格下げを発表した。これは、米国史上初の出来事であり、議論の余地があるとしても、金融市場に悪影響を及ぼす恐れがある。
S&Pがこの日収集した情報は、将来の赤字を2兆ドル多く見積もることにつながり、オバマ政権が大変な間違いと呼ぶ事態を引き起こした。1日の電話は、S&Pが格付けを引き下げた理由ではないものの、株式市場の急落や大統領執務室での臨時ミーティングなど、米国の世界での地位、オバマ大統領、S&Pの評判に深刻で長期にわたる影響を及ぼしかねない一連の出来事の一つとなった。
今、ホワイトハウスが置かれている状況は、欧州の債務国と変わらない。気に入らない評価を下した格付け会社と、公然と言い争っている。S&Pは、決定について再検討すべしとの米財務省の提案を受け入れず、書面で格下げの正当性をあらためて訴えた。
ジーン・スパーリング国家経済会議(NEC)委員長は、「彼らの間違いの重大性と、間違いを指摘されて、プレスリリースの中で主要な論拠をすぐに変える態度は、驚愕するほどだ」としたうえで、「まず結論ありきで、それに合わせて議論を作っているように感じられる」と述べた。
S&Pのプレジデント、デブン・シャルマ氏は6日、インタビューの中で、声明を出すスピードを含め、同社の立場を擁護した。シャルマ氏は、「我々が格付けの決定を下した場合、すぐに行動を起こし、迅速に市場に伝えなければならないと信じている。市場に我々の見方を知らせることは重要だ」と述べた。
7月31日、ホワイトハウスと議会共和党は、14兆2900億ドルの債務上限を引き上げることと10年間で2兆1000億~2兆4000億ドルの財政赤字を削減することで合意。一部のホワイトハウス当局者と議会指導部が目指していた4兆ドルの赤字削減には届かない内容となった。増税に対する共和党の抵抗とヘルスケアの大幅削減への民主党の反対が、大枠合意への期待を潰した格好だ。
期待を下回る規模での合意は、8月2日以前の政治合意を目指した懸命の努力の表れだった。しかし、不吉なことに、米国が70年間維持してきたトリプルAの格付けに必要であるとS&Pが主張した4兆ドルには、赤字の圧縮規模は届かなかった。
S&Pは、議会予算局(CBO)に電話をかけた際、「ベースライン」と呼ばれる、前提の異なる複数の予測について質問した。S&Pは、インフレ率が高まれば歳出が増え、赤字がさらに増える、といったこの種の予測を、政策決定の将来の赤字への影響を予測するために使っている。この何気ないやりとりが、数日後に交わされる劇的な電話の応酬の下地を作ることになる。
オバマ大統領は2日、債務上限引き上げ法案に署名。その翌日、財務省のメアリー・ミラー次官補ら当局者は、S&Pのアナリストチームと合意について協議した。
財務省側は、S&Pの「クレジットチーム」のメンバーに、財政赤字の削減と将来の歳出削減について説明した。
Tロウ・プライス・グループに26年にわたり在籍し、債券市場の専門家で金融アナリストのミラー次官補は、政権外での知名度はさほど高くないものの、ホワイトハウスの経済チームの要だ。ミラー氏は、交渉が長引くなか、米債務の不履行を可能なかぎり回避するために尽力した。最近、財務省のシニアポジションに指名されたことは、彼女の存在感の高まりを示している。
2階にある彼女のオフィスは、ガイトナー財務長官の部屋の真下にあり、ホワイトハウスを見渡せる。
S&Pのチームには、ソブリン債務の責任者、デビッド・T・ビアーズ氏がいた。豊かな口ひげをたくわえていることで知られる彼は、一部では――特に政権内では――現実派として有名だ。1時間半のミーティングの終了後、S&Pは、次の行動を決めるために週内に協議を持つ意向を財務省に伝えた。その後、S&Pのチームは、ニューヨークに戻った。
格下げに向かって時計の針が進み始めた。
政権関係者は、S&Pが格下げに踏み切ろうとしていることに、数カ月にわたって気を揉んでいた。4月、S&Pのビアーズ氏を含む関係者は、ガイトナー財務長官らと会い、赤字削減に向けた具体策を求めた。S&Pの関係者は、米国が抱える財政問題についての彼らの見解は、過剰なくらい明白なものだったと感じていた。つまり、英国など、トリプルAの格付けを持つ他国は、赤字削減に向けて大胆な措置を講じているが、米国はそうしていない、という見方だ。
4日、世界の債務問題への懸念が金融市場を揺るがした。ダウ工業株平均は500ドル超の下げに見舞われた。ビアーズ氏は財務省に、「クレジット」委員会の翌日開催を知らせた。
5日の株式市場は、予想外に力強い雇用統計を受けて急反発して始まったものの、S&Pによる米債務格下げのうわさが伝わると大幅安に転じ、米東部時間午前9時48分から、8分間で150ドル下げた。乱高下は終日続き、S&P関係者は彼らの計画についてのコメントを拒否した。
S&P関係者が5日朝に電話会議を開き、同社が126カ国の格付け見直しで行うプロセスと同様、米信用格付けについて詳細な意見を交わしていたことは、その時点で知る者は少なかった。そしてついにS&Pは、米債務の格付けを「トリプルA」から「ダブルAプラス」に引き下げることを決定した。
米東部時間午後1時15分、S&Pは財務省に電話、格下げを伝えた。その30分後、プレスリリース案のコピーが電子メールで送られた。公表は間近に迫っていた。
この電子メールが、オバマ政権に衝撃を与えた。ガイトナー財務長官はデーリー大統領首席補佐官とスパーリングNEC委員長に電話、格下げについて知らせた。ガイトナー、スパーリング両氏は、これを伝えるために大統領執務室でオバマ大統領と面会。オバマ大統領の反応は定かではないが、格下げのニュースは、欧州の指導者らとのユーロ圏債務危機についての緊迫した電話会談のさなかにもたらされたことになる。
財務省内では、ミラー次官補のオフィスに当局者らが集まり、プレスリリースを「分析」していた。そこには、ニューヨーク連銀出身の財務省のトップクラスのブレーンであるマシュー・ラザフォード氏、法律家のクリス・ミード氏、ガイトナー氏の重要な助言者であり予算専門家のジョン・ベロウ氏が含まれていた。
数分後、ベロウ氏は、S&Pの決定の中に、財務省が「大変な誤り」とみなすものがあることに気がついた。S&Pは、多くのアナリストが考えるよりもかなり早いペースで赤字が増えることを予想する「ベースライン」を使っていた。つまり、S&Pは、一般的な見通しではなく、CBOの「別の」シナリオを使っていたのである。
標準的な見通しを使うと、赤字額は、S&Pが使ったシナリオと比べ、5年間で約3000億ドル少なくなる。10年間ではその差は2兆ドル近くになる。財務省当局者は、財政赤字削減幅の2兆ドルの不足が格下げの理由だとみていたため、この新たな「発見」により、S&Pの決定は覆せると考えていた。
財務省当局者は、彼らの「発見」をS&Pとガイトナー財務長官、ホワイトハウスに伝えた。歴史的な決定は今や、宙ぶらりんの状態にあった。
S&P関係者は驚き、CBOのアナリストに問い合わせの電話を入れた。S&Pは、すぐに、より穏やかな赤字見通しに変更した。財務省当局者は、S&Pに対し、数日間はいかなる決定も遅らせ、時間をかけて慎重に判断するよう求めた。
財務省は、大幅な変更を考慮し、S&Pは「クレジット」委員会を再招集すべきだとした。これにS&Pは同意、北米と欧州の関係者は、彼らの決定を覆すべきかについて決めるため、電話会議を再度開催した。
財務省とホワイトハウスの当局者は、そわそわと落ち着かずに待っていた。数時間のあいだ、彼らの精神状態は、失望からうんざりとした感情、そして最後には不信へと変化したことだろう。
S&Pは、予想値に変更はあったものの、格下げには値する、とした。しかし、彼らは、理由づけの焦点を変化させた。財政赤字削減合意が不十分であることを主な理由とするのではなく、米政府の政治文化が機能していないことを強調した。
S&Pは、この変更を反映させるために、プレスリリースを書き直した。
この「政治状況」の説明は、ホワイトハウス、議会共和党のどちらに責任があるとは断じていない。しかし、S&P関係者は、今回の政治の混乱により、将来の赤字削減策の実現性に疑問が浮上したと感じている。彼らの見方によれば、米人口の高齢化と今後十年でインフレ率を上回るヘルスケアコストに対処することは極めて重要だと思われる。
ビアーズ氏は米東部時間午後8時、財務省に電話を入れ、格下げが迫っていることを伝えた。財務省当局者は抗議した。
30分後、歴史的なプレスリリースが世界中をかけめぐった。