「こいつがなんだかくらいわかってるよな」
非常階段の鉄柱を背に、座り込んだ銀縁デブが小刻みに首を縦に振った。
邦彦は包みのひとつを開いた。耳掻き一杯ほどの緑の結晶。『スパーク』だ。アルミホイルであぶって煙を吸い込めば、目が飛び散るような世界にトリップできる。原料は市販の漢方薬と解熱剤。どこかのバカが合成方法を見つけてインターネットに公開した。厚生労働省の動きがのろいおかげで、今じゃ、あちこちで出回っている。『スパーク』を売るのは気の弱いガキどもだ。いじめの代わりに売らされている。いじめるやつからすれば、殴り飛ばして親から金を引き出させるより、はるかに効率よく稼げる。
「これはお前が作ったのか」
首が横に振られた。
「お前は誰かに言われてこれを売ってるんだろ」
首が縦に振られる。
邦彦はしゃがみ込んで、血でてかった銀縁デブの顔に目線を合わせた。背中の下で硬い違和感が強くなる。ガキとヤクザの違いを決定づけるもの。邦彦はジャケットの後ろに右手を回すと、ベルトに挟んだ拳銃を引き抜いた。銃口を銀縁デブの頬に突き当てる。細かった銀縁デブの目が大きく見開かれた。視線は拳銃に釘付けになっている。邦彦は拳銃の先で銀縁デブの頬をぴたぴたと叩いた。
「いじめっ子とヤクザってのはな、世界が違うんだよ。やつらは遊びだが、おれたちはこれが仕事だ。わかるか。おれたちはこれでメシ食ってんだよ。必要ならば殺しもやる」
銀縁デブの目が血走った。時間が経っても通り過ぎるものではないことを悟った目。これでいい。ここからが腕の見せどころだ。邦彦は深く息を吸い込むと、乱れた金髪をかきあげて整えた。サングラスを外して胸から下げる。軽くため息をつくと銀縁デブの肩に手を回した。
「なあ、お前もこんなことはいやなんだろ? おれだって、お前を痛めつけたところで何にもならねぇ。お前に『スパーク』を売らせているやつらの名前を吐いちまえよ。おれがそいつらを片付けてやる。そうすれば、お前も楽だろう。やつらに仕返ししてやりたいんじゃないか」
押さえ込んだ柔らかめの声。銀縁デブの目が泳いでいる。だが、さっきのような弱さは無い。目つきに力が入っている。手ごたえを感じた。
「お前、何年生だ」
「高一」
「じゃあ、このままだとあと二年はいじめが続くわけだ」
銀縁デブが唇を噛んだ。行ける。あともう少しでこいつは落ちる。邦彦は唇を舐めた。
「薬はおれたちの商売だ。お前たちにこんなものを売られちゃ困るんだよ。それはわかるよな」
首が縦に振られた。
「おれたちは職業ヤクザだ。おまえにゃ、連中を消すことはできないだろうが、おれたちには簡単なことだ。連中がいなくなれば、おれたちは商売を荒らされなくなる。お前はいじめから解放される。そうだろ?」
銀縁デブの目に力がこもり涙が流れた。嗚咽。完全に掛かった。腹の中で笑いが漏れた。
「つらくて……、つらくて……。親にも言えなくて……。もう生きているのがイヤで……。でも、自殺なんか怖くてできなくて……。自殺ネットに書き込むつもりで……」
銀縁デブが爆発するように泣き始めた。想定外の言葉に心が惹かれた。
「自殺ネット? なんだそりゃ」
「お金さえ払えば誰かが自分を殺してくれる闇サイトで……。でもお金が必要で……。だから、包みから少しずつ『スパーク』をかき集めて……。それを売ったお金が貯まったら、サイトに申し込むつもりで……」
「そのサイトはどこにあるんだ」
「そんなのケータイのネットにいくらでもある……。お金だけ取られる偽のサイトもたくさんある……」
「どうやって本物を見分けるんだ」
「どれが本物かなんてわからない……。まだ、いろんなサイトの説明を読んでるだけで……、どうやって見分けるかなんてわからない……」
自殺ネットが存在する。引き込まれそうな話だった。だが銀縁デブはまだ大したことをつかんでいない。闇の世界を知らないガキが、闇の仕事屋を見分けることなど到底無理な話だ。自分で調べた方がはるかに早い。脱線した話に時間を使うわけにはいかなかった。誰かに見られると厄介だ。
邦彦はポケットから手帳を取り出すと何も書いていないページを開いて、ペンと一緒に銀縁デブに差し出した。
「お前にそんな闇サイトはもう必要無い。おれたちが連中を片付けてやる。そこに連中の学校名と名前を書け。学年とクラスも忘れんなよ」
銀縁デブが次々と名前を書き始めた。目がぎらついている。邦彦は腹の底で笑った。
名前は八つ並んだ。
「他にお前みたいに売らされているやつはいるのか?」
「三人いる」
「そいつらの名前も書け」
更に三つの名前が追加された。
「この八人の役割を説明しろ」
「貴之がリーダーで、『スパーク』を仕切っているのが秀一。あとは取り巻き」
まだ涙声でしゃくりあげているが、話そうとする自発的な意志が感じられた。すがるような目。「何でも言うから、こいつらを消してくれ」と言っているようだった。
「じゃあ、秀一ってのが『スパーク』を作っているのか?」
銀縁デブが頷いた。邦彦は秀一と書かれたところに丸印をつけた。
「秀一ってのはどんなやつだ。どこで『スパーク』を作ってるんだ」
「秀一は学年でトップの成績なんだ。科学オタクで、家にいろんな実験キットを持ってる。真空蒸留装置まで持ってるって言ってた。父親が製薬会社の研究員なんで、色々と実験方法を教えてくれるらしい。父親は秀一が家でスパークを作っていることなんか知らない」
「月にどれくらい捌いてるんだ」
「他の三人がどれくらい売ってるかは知らないけど、僕は月に二百万円から三百万円売ってる」
ざっと見積もって、四人で月に一千万。年間にすれば楽に一億を突破する。しかも材料費は大してかからない。丸儲けだ。ヤクの売人なんかバカらしくなるような数字だ。
「連中のバックにはどこかの組織がついているのか?」
「そんなの無いよ。全部あいつらだけでやってる」
「そうか、じゃあ連中を殺しても、どこの組にもいちゃモンをつけられることはないわけだな」
邦彦はゆっくりと立ち上がるとサングラスをかけた。
「ただ、お前はおれの顔を見ちまったな」
はっとした顔で銀縁デブが邦彦を見上げた。邦彦は唇の端を吊り上げて笑った。もう我慢すること何も無い。押し殺していた凶暴さを開放する時が来た。腕と足の筋肉には弾けんばかりにs暴力が充満している。銀縁デブの腹を思い切り蹴り上げた。銀縁デブは倒れこむと再び亀になった。かまうことはない。
邦彦は右足を振りあげると銀縁デブの肩を蹴った。腕を蹴った。足を蹴った。体中を駆けめぐる暴力が狂喜の声を上げている。銀縁デブの後ろ髪をつかんで引き立たせた。銀縁デブが両腕で顔を覆った。その上から拳銃のグリップで思い切り殴りつけた。金属の塊が肉に食い込む鈍い感触。もう手加減する必要は無い。力いっぱい何度も殴りつけた。殴るたびに銀縁デブの鼻と口から赤い血が飛び散った。銀縁デブが座り込んで邦彦の右足にしがみついた。
「助けて……」
邦彦は両手で非常階段の手すりを握ると、右ひざごと銀縁デブの頭を階段の鉄柱に叩きつけた。銀縁デブはしがみついたまま離れようとしない。頭に血が上った。力いっぱい何度も叩きつけた。飛び散る血。しがみついていた銀縁デブの体がずるりと落ちた。銀縁デブの顔が刷毛で拭いたように邦彦の黒皮のパンツを血で赤く染めた。血がついた太ももからざわざわとした嫌悪感が駆け上がってきた。全身に怒りが突き抜けた。
仰向けに倒れた銀縁デブの顔を蹴った。腹を蹴った。胸を蹴った。肋骨が折れる感触。冷たい快感が背骨を突っ走った。ところかまわず蹴り続けた。
汗が吹き出て息が上がった。仰向けに倒れている銀縁デブの胸を踏みつけた。だぶついた脂肪の感触。銀縁デブの口からゴボリと血が噴きだした。腫れ上がった目は虚ろになっていた。意識を失いかけている。
半開きになった口から立ちのぼる白い湯気。その口を目がけて銃口を叩き込んだ。白い前歯が飛び散った。虚ろだった銀縁デブの目に光が戻った。首を横に振りながら邦彦を見上げている。血走った目玉が震えている。懇願の目。邦彦は冷たく笑った。銀縁デブが、くわえさせられた拳銃を口から引き出そうと邦彦の腕をつかんだ。
「いじめられるやつはなあ、どこに行ってもいじめられるんだよ」
引き金を引いた。くぐもった爆音。銀縁デブの顔面から目玉が飛び出し、頭の下で赤い血だまりが爆発した。銃身が吐き出した薬きょうが足元で軽い金属音を立てた。銀縁デブが死線を飛び越え、あっちの世界に降り立った足音のようだった。
ぽっかりと開いた銀縁デブの口から白い煙が立ち昇る。生臭い血の匂いと硝煙の刺激臭が鼻を突いた。拳銃を引き抜くと、銃口が銀縁デブの口から光る糸の尾を引いた。銀縁デブのセーターで銃口を拭った。ぬるぬるとした粘液の感触。むかついた。頭の中で血がざわついた。銀縁デブの腹に銃口をめり込ませ何度も引き金を引いた。小さな破裂音。銀縁デブの死体が大きくバウンドする。笑いが漏れた。満足感が満ちていく。体中を駆けめぐっていた凶暴さが熱を引き、鎮まっていった。
拳銃を腰に差すとあたりを伺った。だれも出てくる様子は無い。口に突っ込んで撃った銃声など、ここではドラムの音が漏れたくらいにしか誰も思わない。邦彦は足元に散らばった『スパーク』をかき集めてポケットに突っ込んだ。
携帯電話を引き抜くと、メモリーから番号を探し出して送信ボタンを押した。拳に乾いた血が貼り付いていた。三回の呼び出し音で相手が出た。
「ウェイ……」
不機嫌そうな中国語。
「楊さんか?」
「さわたさん、勘弁してくたさいよ。今、何時たと思ってる」
死体処理専門の中国人。『だ』と『た』が曖昧な日本語がうっとおしい。
「死人が出た。死体を片付けてくれ。今すぐだ」
「さわたさん、こんな時間に予告も無しに人を殺すなんて。処分しろって言われても困るよ」
「ふざけんなよ。こいつは組の仕事だ。いっぺん死んでみるか、あぁ!」
ため息と沈黙。
「場所は、渋谷の『ヴィズ』ってクラブの非常階段だ」
ため息。
「三十分以内に若いやつ連れていくよ」
「わかった。後は頼んだぞ」
邦彦は携帯電話を切るとタバコを取り出し火をつけた。
楊がくれば安心だ。楊は跡形も無く死体を片付ける。死体が無ければここの連中は誰も騒がない。無関心。銀縁デブが店にいたことなどだれも気にはしていない。ここはそういう世界だ。親が騒いだところで、行方不明だけでは警察はまともに動かない。それだけ犯罪が増えている。無関心。ここだけじゃない。誰もが面倒なひとごとは見て見ぬ振りを決め込んでいる。自分のちっぽけな満足を囲い込むことしか頭に無いやつらで溢れている。邦彦。隣に住んでいるやつの顔さえ知らない。
短くなったタバコを足元に投げ捨てた。水に触れた火が消える音。血溜りが足元にまで広がってきていた。振り返って銀縁デブの顔を見た。飛び出した眼球が、ねっとりと光る繊維の尾を引いて頬の上で宙吊りになっていた。眼球を失った空洞。底無しの暗闇のようだった。首筋を怖気が走った。