サイコさんのブログ

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世界の中心で・・・


  資格ブログ村  法律系資格 現在 52位   士業(弁護士、会計士等)  現在 12位沖縄・久米島から日本国家を読み解く   佐藤優地政学は、現代では歴史学の一部となってしまったようであるが、近代においては、植民地開発あるいは軍事的侵攻等にとって戦略上重要な学問であったようだ。そうした意味からも、現代ではポストコロニアルの時代なのだが、この著もまさにポストコロニアリックである。まず、諸概念から、亜民族(ナロードノスチ)とは、人種・言語・文化が相対的に均質で、民族に先行する段階の形態をいう。佐藤が言うところでは、「国家を持つには至らないまとまった民族体」のことで、「私自身は、沖縄人という民族意識をもっているのだろうか? ロシアの民族学者ユーリー・ブロムレイのエトノス論に基づけば、この問題は簡単に解決することができる。沖縄人という自己意識は、民族(ロシア語のナーツィヤнация)に至る前段階の亜民族(ロシア語のナロードノスチнародность)であるということだ。亜民族意識は日本人というアイデンティティーに吸収されてしまう可能性もあれば、独自の民族に結晶することもある。結局、沖縄人は、完全な日本人であるか否か、沖縄人という民族であるか否かという問題意識を常に抱えざるを得ないのである。(「沖縄・久米島から日本国家を読み解く」P300)と言っている。こうした複合アイデンティティの逡巡の結果、佐藤は日本人として、というよりも国際的感覚を持つ者(コスモポリタン)となるのである。ここへの導きの糸は、仲原善忠という久米島に生まれた郷土史家の「久米島史話」(仲原善忠全集 第三巻 民族篇)によるところが多い。実際、「沖縄・久米島から日本国家を読み解く」では、「久米島史話」からの引用が多く用いられている。コスモポリタンへ至る道筋は、「久米島史話」には書いてあるはずもないのだが、仲原の生涯から佐藤が思い至るわけである。久米島の新垣の杜を世界の中心として見る。そこで、世界と歴史はどのように見えてくるのか。1400年代、久米島には親方(ひや)という共同体の指導者がいた。そこへ、琉球王朝成立で討伐を逃れてきたと思われる豪族が、島外から来て久米島を支配するようになる。この支配者を按司(アジ、アンジ)というが、この島外士族と島民は戦わずして支配下に入るのである。武力では徹底的に劣る島民に無益な争いをして犠牲者を出すことを回避したわけであるが、この按司と島民との交渉役が「堂のひや」という島内とってのエリートであった。1510年に琉球王朝の支配が及ぶまでは、久米島では按司に支配され、「堂のひや」は年貢の徴収役をして共同体を維持していた。しかし、琉球王朝の討伐により按司は、ついに最期と、わが子を「堂のひや」に託すのであるが、預かった後、「堂のひや」はその幼主の髪の毛を結うふりをして絞め殺してしまう。それで首里城に行き、前の按司の息子が病死したとして、自らをを按司にするよう嘆願して任命してもらう。嬉々として帰った「堂のひや」だったが、入城する際に落馬した折に、脇差が刺さって死んでしまう。確かに按司の子供を殺す必要はなかったかもしれない。残虐なところもあったが、按司は外から来て久米島の住人から年貢を取り立てるような部外者で、「堂のひや」たちも心から従っていたわけじゃない。按司とともに殉死する必要はないし付き合う必要もない。天命が離れたのだから。久米島や琉球には、この天命という易姓革命思想により共同体を機能させていた。共同体を治める者には徳がなければならず、その徳が失われれば、天命が離れた、ということになり新たに徳のある者、天命を受けた者により統治されることとなるのである。「堂のひや」についても天命を受けていたわけではなかった。それで落馬して死んでしまうのではあるが、佐藤、いや仲原は、「この堂のひやこそが久米島の英雄なんだ」と、英雄伝説としての「堂のひや」に久米島性を見るのである。そして琉球王朝時代前から続く祭政一致体制内の宗教的な部分として、ノロやユタたちを束ねていた君南風(きみはえ、チンペー)という高級神女がいた。1500年、オヤケアカハチの乱において久米島の君南風が琉球王府軍に随行し、討伐が始まるまさにその前に、相手側(石垣島)のノロたちと対峙し、呪言を投げ交わすのである。呪言といっても、要は「王府軍の圧倒的力の前には勝ち目が無いので潔く降伏しろ」という情報を先駆けて、相手に知らしめる役目をしているのである。この神力によって、石垣のノロたちは霊感して退去するということであったようだ。この功績が認められ、聞得大君により33神女の列に加わり、高位に配されたようである。そして、1609年、薩摩による琉球侵攻により、久米島も薩摩藩と清への両属という体制に組み入れられる。それまでは自由貿易的な恩恵にも浴していたのであるが、江戸幕府の鎖国体制によって、海上貿易からの利益を得られなくなった。1853年、琉球に黒船が来航した際に、史実をつなぎ合わせてみると、ペリー一行は久米島に食料調達のために立ち寄っていたということである。1879年、琉球処分により沖縄県に組み入れられる。そして、1945年、太平洋戦争の終結へと流れていく。その沖縄戦において、久米島の当時の指導的立場にあった者は、「堂のひや」的に日本軍と米軍の間で中立を維持することとしていた。それによって「集団自決」は起こらなかったのであるが、パニックとなった前戦の日本軍は、住民20人を虐殺してしまう。日本軍の支離滅裂な状況に比して、久米島の土着エリートは、共同体維持の最善を尽くすのに冷静であったということである。「堂のひや」モデルを念頭においてコスモポリタンとなること。久米島の新垣の杜に最初に神々が降り立った、そこがコスモの中心である。グゥーーーー
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