宮ちゃん◎リーマンさんのブログ

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[人物伝]池田敏雄氏の生と死(1/3)

「巨象」への挑戦

「巨象」と「蚊」の闘い

全国の人々が毎日のように利用する銀行のATM(現金自動預け払い機)、最先端技術の粋を尽くして計算されるロケットの打ち上げ軌道、台風や猛暑、大雪などの複雑な気象の変化を察知する天気予報、そして、日々進化しながらわれわれの暮らしに様々な利便を与えてくれる家電の設計……。こうした開発のベースとなっているののが、20世紀最大の発明と呼ばれる「コンピューター」である。一日450万件、10兆円に及ぶ日本全国の銀行間の為替取引をつかさどるのも、東京と大阪に置かれた最新鋭のコンピューターシステムである。

戦後、コンピューター市場に君臨したのはアメリカの大企業『IBM』であった。その市場を握るものは世界を制すといわれるなか、IBMは世界市場の7割を抑え、高い技術で他を圧倒した。その存在は「巨大な象」と呼ばれた。

ところが、いまから約50年前、その巨象に無謀にも闘いを挑んだ日本の電話機会社があった。富士通信機製造。売り上げ高は業界最下位。会社の未来のため、新たな事業展開が必要だとして、日本企業で初めて本格的なコンピューター開発に挑戦したのだった。

プロジェクトを率いたのは、池田敏雄。のちに「ミスター・コンピューター」として名を馳せることになる男である。遅刻・欠勤は当たり前の一癖も二癖もある問題社員ながら、抜群の発想と実行力、そして不思議な魅力でみなの気持ちを引きつけた。

IBMとの闘いは、まさに「巨象と蚊の闘い」だった。追いついたかと思うと引き離され、追いついたかと思うとまた引き離された。

20年以上にわたる格闘の末にたどり着いた「逆転へのカギ」は、高速回路LSI。しかし、あまりに複雑な構造ゆえに、LSI同士をつなぐ配線は「もりそば」のように絡み合い、回路は高熱で焼き切れた。

チーム全体に焦燥感が漂い、みなが諦めかけたとき、池田は言った。「挑戦者に無理という言葉はないんだ」

IBMを凌駕し、ついに「世界最速の頭脳」」の栄冠を勝ち取った国産コンピューター。その誕生の舞台裏には、日本技術陣による、まさに命懸けの壮絶なドラマがあった。

風変わりな新入社員

昭和21(1946)年、戦争によって荒廃した国土を建て直すべく、日本は復興のまっただ中にあった。通信機事業もその一つであり、空襲によってズタズタになった電話網を回復・整備するため、メーカーは工場をフル回転、大量の電話機や交換機の生産に追われていた。神奈川県川崎市にある富士通信機製造(注 1967年6月『富士通株式会社』に社名変更。以降本文では、富士通とする)も、そうした電話機メーカーの一つだった。

そんな最中、富士通に一人の風変わりな若者が入社してきた。身長180センチという、当時としては頭一つ抜き出た長身。それだけでも目立つうえに、行動も異色そのものだった。遅刻は当たり前。昼休みにはバスケットに興じ、時間が来ても戻ってこない。それが池田敏雄だった。

後輩の山本卓眞(現富士通名誉会長)は言う。「私が入社したときにはすでに有名でした。遅刻はし放題ですし、大きな声で歌を歌うしですね。昼休みにはゴースト(いなくなる)。足を横柄に組んで、タバコをプハーッとやってみたり。お世辞にも行儀がよいとはいえなかった」

ところが、まもなくその池田が社内で一躍注目を浴びることになった。昭和22(1947)年、電話機を納入していたGHQ(連合国軍総司令部)から苦情が入ったときのことだ。「雑音が聞こえる、欠陥商品だ」会社側は大慌てで、必死に調査を行ったが、原因はわからなかった。そんな中、機構研究室課長の小林大祐に2冊の大学ノートを差し出しながら、原因がわかりましたと言ったのが池田だった。「この電話機ではダイヤルが100回転するたびに、構造上必ず1度雑音が起こります。理論的に避けられない現象です」ノートには、精緻な証明がびっしりと書き込まれていた。小林はあ然とした。「こいつはいったい何者なんだ?」

すべては感動から始まる

池田敏雄は大正12(1923)年、東京・両国の漢方薬店の長男として生まれた。父父は仏画の趣味が高じて放浪の旅に出、ほととんど母の手一つで育てられた。少年時代の池田はどちらかというと内向的な少年だったらしい。しかし、幼いころから「飛び抜けてよくできるもの」があった。数学である。難しい解析問題をすらすら解いては、母を喜ばせた。中学・高校時代には数学雑誌の懸賞問題に次々に応募し、様々な賞を総なめにした。池田が「ミスター・コンピューター」と呼ばれるコンピューターの第一人者となるゆえんは、一にかかって、この「数学の才能」という点にある。

だからといって、家に閉じ篭もりっぱなしのひ弱な少年だったわけではない。両国という土地柄、相撲に興味を持ち、大柄な体格とあいまって負けなしの強さだった。長じてのちはバスケットボールの花形。高校時代はエースとして、母校を全国大会優勝にまで導いた。当時を知る人によると、池田は自身が花形プレイヤーであるだけでなく、チームとしての作戦を練ることにも長けた、優れた「戦略家」でもあったそうだ。

池田はかなり多芸多才である。東京工業大学在学中は、もっぱら麻雀に熱中した。数学好きの池田らしく勝負の手を科学的に分析し、「すべての上がり方と確率を割り出した」と豪語した。碁にも堪能で、「昭和の碁聖」と称された不世出の棋士・呉清源とも昵懇の間柄であった。仕事の合間を縫って日本と中国の囲碁のルールを徹底比較し、日本のルールの不合理性を膨大な資料を用いて証明したりもした。

クラシック音楽や文学などにも詳しかった。いわく、「会社に出勤する前にベートーベンが聴きたいと思ったら、遅刻してでも聴く。それで給料が減るなら、それでも構わない」要するに非常な凝り性であり、興味を持つと寝食を忘れてのめり込む性質であった。逆にいえば、自分の心を揺さぶり、感動させ、惚れ込ませてくれる「何か」を常に追い求めているような人物だった。そのかわり、興味を感じないものには、見向きもしなかった。池田はのちに次のように語っている。

「コンピューターでも音楽でも何でも、まずは感動することから始まる。感動するということは、心の中に何かがダイナミックに湧き起こってきた証拠。だから、何かに感動したら、とにかくそれに没入しろということなんです」

『プロジェクトX 挑戦者たち 14 命輝け ゼロからの出発』より





社会にPC、インターネットが普及し、一方、コンピュータ技術者もWindowsプログラミグやUNIXの事はよく知っている時代になったが、パソコンマニアも日本のコンピュータ産業史は意外と知らないのではないだろうか。以下は、IBMが巨人として台頭していた時代に日本のコンピュータ産業に礎を築いた富士通の技術者、池田敏雄氏の人物像です。

 戦後、政府は国内産業の育成・発展のため、自動車業界でもコンピュータ業界でも、企業の合弁、協業を図ろうとした。弱小メーカーが分散していては既存の米国のメーカーとは戦っていけないとの判断があったからである。昭和40年代にコンピュータ産業の国策化を担当したのが後に大分県知事となった平松氏である。その平松氏が合弁・協業の相談を持ちかけたのが当時、大型計算機の売上げが販売内訳の主力であった富士通の一取締役であった池田氏であり、池田氏の発言が平松氏の政策案に大きく影響を与えたのであった。
 
 池田氏は数学の天才で、富士通に入社し、人員削減の窮地の経営状態の中で、上司の課長の小林氏の元、アンダーグラウンドで、コンピュータの開発に没頭する。そののめりこみは、寮や合宿所となった社外の個室にこもって、設計回路図を延々と書きつづけ、会社にもでてこないという、異例のものだった。池田氏の書いた設計図を引き継いで形にしていったのが、後に会長となる山本卓真氏である。このような協力者のもと、富士通はリレーを使って計算機の事業化に至るが、巨象のIBMも真空管からトランジスタ、ICと次々と高速デバイスで立ちはだかってくる。富士通もデバイスを高速化していくが、最後にIBMに対抗するためコンピュータのLSI化技術をもったアムダール社と提携を行う。

 池田氏のコンピュータ開発の全速力の人生は、氏の身体に大きな負担をかけていた。アムダール社を空港に迎え、幹部と握手した直後、池田氏はクモ膜下出血で倒れ、51歳の若さで早世してしまうのであった。彼が生きつづけていれば、その後の日本のコンピュータの歴史も変わっていたかもしれない。

 数学・論理の天才の彼が言わしめた言葉は印象に残る。“コンピュータの発展というのは、1つの合理的な中で発展を遂げるほど単純なものじゃないんですね。…要するに矛盾を包含しながら、それをさらに止揚して進歩していくものなんです”

   


池田敏雄は1923年8月7日生まれ.1946年に東京工業大学電気工学科を卒業すると直ちに富士通信機製造(現富士通)に入社した.戦後の空白期間を経て,再び計算装置に対する関心が高まったころ,東京都庁統計課では,戦災で焼失したIBMパンチカード統計機の代わりに,山下英男らが開発した統計分類集計機を設置することになり,これは富士通信機製造に発注され,1951年5月に納入された.その後山下英男,を通じて富士通信機製造に株式取引高清算装置の開発打診があり,これを小林大祐の下で池田敏雄,山本卓眞などがその試作開発にあたった.1953年3月に完成した.この装置は,これに続く継電器(リレー)式自動計算機の開発に多くの示唆を与えることになった.
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