秋になりました。読書の秋です。高校生の時、2年生の時、10月か11月に、岩波か角川の文庫本を読んだ。全て小説だった。1週間に5冊読んだ記憶がある。一日に3から4時間だと、1週間に5冊読める。読んだのは、武者小路実篤の軽い本だった。「若き人びと」などであった。
その他、スタンダールの「赤と黒」ドストエフスキーの「罪と罰」バルザックの「谷間の百合」国木田独歩の「武蔵野」田辺花袋の「布団」。
サマーセット、モームの「月と6ペンス」。これはゴーギャンをモデルにしている。
島崎藤村の「破戒」。これは何だか分からなかった。部落民を扱ったものだが、私の村では、どこの集落でも部落という言い方をしていたからである。明治の初め、士農工商の身分制度は、無くなったが、これに属さない、更に下の部落民がいることが、わからなかったからである。
「若きウェルテルの悩み」。これには、有名なセリフがある。「弱きものよ、汝の名は女なり」。(心の弱いものは、女である。)「尼寺へ行け」である。
その他、デカルトの「方法序説」。このなかで、デカルトは全ての存在するものを疑った。しかし、これだけは疑うことのできないことがある。それは、今、目の前の机の存在を、疑っているが、この疑っている自分の心だけは疑う事はできない。そこから「我、思う、ゆえに我あり」がでてくる。
パスカルの定理で有名な、パスカル著、「パンセ」。人は弱いものである。この人を攻撃するのに、全宇宙が武装することはない。葦のずいから空を見る。
その他アンドレジイドの「狭き門より入れ」キリスト教を信じるには、針の穴より、更に狭い門がある。勇気を出して、その狭き門より、入ろうではないか。紫水晶の十字架が、記憶に残る。片思いの小説である。
芥川龍之介の短編小説「地獄変」などを数冊。芥川の小説では、最後の小説は、
どうみても、常人の感じるものではない。この辺では、芥川の精神状態が、かなり、おかしく、なっていることがわかった。支離滅裂の文なのである。自殺をする原因だったと、思う。
ショーロホフの「静かなドン」。バートランドラッセルの「怠惰への賛歌」。
ロマンローランの「ジャンクリストフ」。これは、中学の国語のテキストにも出ていた。召使を何時も、馬鹿にしているクリストフが、ある夕方、川のほとりで、その召使に会う。召使は言う「美しい音楽だって。ここに、美しい、川のせせらぎの音楽があるではないか。わざわざ、音楽を作る理由などないではないか。」これを聞いて、クリストフは、この召使が、神々しく見えてきた。
このモデルは、ベートーベンだという。
「ベートーベンの生涯」は、新書版で読んだ。
この他、映画アラビアのロレンスの主人公、ロレンスの「7つの知恵」は新書版だったが、読んだ。
ボーボワールの「第2の性」。これは、女性は男より、歴史の上で劣っているという内容。(ボーボワールは、実存主義のサルトルとの同棲生活をした。慶応大学の公演で、ものすごい勢いで熱弁をふるっていたという事を先生から、聞いた。)
ヘルマン、ヘッセの「車輪の下」。カマキリは車輪の前で、威張って見せても、結局、車輪に潰されてしまう。天才的少年の堕落してゆくことを、書いている。
アメリカ独立当時の「フランクリン自伝」。この中で、雷は電気であることを実験した。これは、極めて、危険な実験であった。
大体、高校正が読むべき本です。この頃から、基本的な事を重視しておりました。どうでもよい本より、質の高い本を、求めていたのです。
この辺から、20歳頃までに、200冊くらい読んだ。20歳を過ぎると、ビジネス書に変わっていった。読書の秋か。今はもう、小説を読む気がしない。若い頃、読んだから、いいや。それと、特に、得られるものは、無いから。
今は、本を読まない人が、増えているとか。ゲーム中心の世の中とか。考えることをしない世の中とか言われている。薄っぺらくなったもんだ。
これも、日本の国力と無縁では、無いだろう。