久しぶりに、焼きそばを食べる。たまに、食べるので、これが美味しい。
焼きそばと言えば、小学校の2年生の時、お寺のお祭りで、初めて食べた。
その時、何て、美味しいものかと思った。その時分は、まだ、ウスターソースなど使わなかった時代である。醤油は、自家製の醤油である。戦後の混乱期から、やっと、日本がたち直りつつあった時代である。
へぎ(木を薄く削ったもの。この頃は納豆もへぎで、包んでいた。)を小さく切った上に焼きそばを乗せ、生姜と、青のりを振りかける。値段は5円であった。
この頃は、アンパンが10円。ところてんが5円。タバコのゴールデンバットが20円。店で食べるラーメンが30円。するめ一枚が10円。
こんな時代だった。一応、洋服は着ていたが、全て木綿で、直ぐに、破れて、ズボンのすねの部分は、大体、破けて、つぎはぎのズボンだった。
遊びと言えば、ベーゴマ、めんこ、チャンバラ、石けり、ゴム飛び、かくれんぼ、缶けり、などであった。
テレビ放送は無く。真空管ラジオで、楽しんだ時代である。蛍光灯は、まだ出て無く、全て裸電球だった。これが直ぐに切れるので、しょっちゅう、電球を、取り換えていた。
電気の供給も、不規則で、突然、停電になることが、しばしばあった。そんな時には、石油ランプで、明るくした。煤(すす)で、石油ランプのガラスの部分が黒くなるので、兄はガラス磨きをたびたびしていた。
台所は、昔の薪を燃やすかまどで、その上に、ご飯を炊く釜を載せる。「始め、ちょろちょろ、中ぱっぱ、赤子泣いても蓋とるな」と言われた。釜の蓋は少し重い厚手の木で、円く削ってあり、その上に手に持つ、「取って」が、2つ並んでいた。今で言う圧力釜である。
まあ、こんな時代で、村中、皆、貧乏だった。今で言えば、畑作業の労働生産性は、極めて低い時代だった。工業は無く全て農家だったので、これが、普通だった。皆、地面に、はいつくばって、草取りや、作物栽培、稲の栽培をしている時代だった。
自動車は、全くなく、移動手段は、全て、自転車なので、空き巣などの心配は、ほとんど無かった。畑作業をしていて、見知らぬ人が自転車で道路を走っていると、急いで家に帰るとか、していた。そんな時代だったので、玄関に鍵をかけている家は、無かった。村中で、防犯を共同でしている時代である。
そんな時代を、思い出した。