戦後の混乱期の歌である。もと従軍看護婦だったその女性は、東京が焼け野原で、全てが失われたために、娼婦となった。題名は「こんな女に誰がした」だったが、進駐軍から、反米感情だというクレームがつき、「星の流れに」になった。
またこれは、NHK特集、「戦後0年」からであるが、GHQは、アメリカ兵専用の売春宿を、日本政府に作るように迫った。ここでの娼婦の待遇は、かなり良かったという。それは、当時、食べ物の事欠く日本では、考えられない、ハンバーグや、焼き肉、その他の食べ物が豊富にあったことである。
今の日本は、この頃から見れば、幸せである。健康で、あれば、こんなことをしなくても、何とか、生きられる国になったのだから。
星の流れに 菊池章子
https://www.youtube.com/watch?v=Xa0Jl71N7ag
(ウイキより)
星の流れに(ほしのながれに)は、1947年(昭和22年)10月にテイチクから発売された歌謡曲。作詞:清水みのる、作曲:利根一郎、歌は菊池章子。
製作の経緯
作詞した清水は、第二次世界大戦が終戦して間もない頃、東京日日新聞(現在の毎日新聞)に載った女性の手記を読んだ。もと従軍看護婦だったその女性は、奉天から東京に帰ってきたが、焼け野原で家族もすべて失われたため、「娼婦」として生きるしかないわが身を嘆いていたという。
清水は、戦争への怒りや、やるせない気持ちを歌にした。こみ上げてくる憤りをたたきつけて、戦争への告発歌を徹夜で作詞し、作曲の利根は上野の地下道や公園を見回りながら作曲した。
当初、ブルースの女王として地位を築いていた淡谷のり子に吹き込みを依頼した。しかし、「夜の女の仲間に見られるようなパンパン歌謡は歌いたくない」と断られた。そこで、会社は菊池に吹き込みを依頼した。彼女は歌の心をよく把握し、戦争の犠牲になった女の無限の哀しみを切々とした感覚で歌い上げた。
完成した際の題名は『こんな女に誰がした』であった。GHQから「日本人の反米感情を煽るおそれがある」とクレームがつき、題名を『星の流れに』と変更して発売となった。
発売後の反響
本社も積極的発売方針では無かったため、レコード発売当初は全く売れなかった。しかし作品のモデルであった娼婦たちが歌詞に共感を覚え、彼女たちの間で歌われることが多くなった。彼女たちの中に菊池を「おねえさん」と呼んで慕い、菊池の出演する劇場にも出かけて、熱い声援を送った者もいたという。
当時、新宿の「ムーラン劇場」で上演されていた風刺ショーでこの歌が使用されるようになってからじわじわと火が付き、1949年(昭和24年)の春頃からヒットの兆しを見せ始め、ついには大ヒットとなった。また、田村泰次郎原作の小説『肉体の門』が映画化された際も、この曲が挿入歌として使用され、ヒットの一因を担うこととなった。1968年時点での累計売上は80万枚。