神仏と共に(6.2.4)10時46分

堅実さん

 こんな老人のブログでも、大体、100回のアクセスが有ります。有難いことだと、思っております。ただ、それだけではなく、人は、何か空しいものを感じて、何かを求めているのだと、思います。そんな人のために、ささやかですが、応援歌をささげたいと、思っております。


 昨日の節分で、書きそこなったことです。小生が、未だ、幼稚園の頃、お婆さんが、かまどで、イワシの頭を焼いておりました。それを、ヒイラギの枝に刺し、玄関に架けました。鬼は生臭いものが、嫌いという事と、ヒイラギの葉の刺が、嫌がるとのことでした。


それでは、本題にいきます。


かの剣豪、宮本武蔵は「神仏は、尊し。しかし、神仏には頼らない」と言ったそうだとか。確かにそうだ、拝んだだけでは、果し合いには、勝てない。おのれの力を信じるだけと、考えていたのでしょう。


 ここでは、拝むだけで、解決するという考えもあります。これを整理してみますと、こうなります。

1 武蔵の様に、自分だけを信じる生き方。

2 神と自分の努力を、合わせて、生きる生き方。

3 拝むことだけで、なんとか、解決しようとする生き方。

 

生き方には、神の力+自分の力の合成になります。

1の場合は、神の力がゼロです。

2の場合は、神の力+自分の力

3の場合は、自分の力がゼロです。

 

だいたいこのように、整理できますが、日常生活においては、たいていの人は、1の生き方であり、年末、年始には神仏をお参りするということでしょう。

小生の場合は、2の神の力+自分の力ですが、骨折した時は、自分の力ではどうにもならなくなり、とにかく、痛みで動けない状態になりました。こんな時は3の場合だったと、思います。

 

 まあ、これは神仏と自分を整理しただけですが、これからの読者の生き方で、参考になるでしょうか。

8件のコメントがあります
1~8件 / 全8件
堅実さん
tukumodayo   さんへ

「小生は年末年始は山の権現様詣でも致しておりますし、農道お散歩でも神社お参りは致しておりますね。
過去に何度か事故に遭遇致しておりますが不可思議と無傷で生きて来れたのも神仏のおかげ様かと感謝致しておりますね。」

この世の中には、説明できない事も、沢山あります。今までを振り返ると、生きているのが、不思議なくらいです。








堅実さんへ

小生は年末年始は山の権現様詣でも致して
おりますし、農道お散歩でも神社お参りは
致しておりますね。
過去に何度か事故に遭遇致しておりますが
不可思議と無傷で生きて来れたのも神仏の
おかげ様かと感謝致しておりますね。
堅実さん
風車の弥吉 さんへ

「僕は最近、般若心経を経本を見ず音読みできるようになりました。
やっぱ歳のせいかも知れません。」

大したもんです。
それと、このブログの分け方は、その後、意味があるのかと、思いました。
このブログには、悟りの境地とか、信じるとかが、無いのです。
ただ、一つの、分類方法としては、面白い分け方だと、思っております。
神仏の力を借りるか、いや止めようと、思っているうちに、このような分類になったのです。




こんにちは。

僕は最近、般若心経を経本を見ず音読みできるようになりました。

やっぱ歳のせいかも知れません。
堅実さん
kouboudaisi   さんへ

「私は天台宗の末寺で修行しましたが、勤行で如来・菩薩等に一切お願い事をしてはならないと言われました。但し、自分の事以外の回向功徳の事は別です。他宗派ですが、親鸞聖人も親や親族のために念仏を唱えてはならないと言っております。一切の有情のために唱えるものなのです。」

随分、難しいことを、言ってますね。
要するに、自分のことを、お願いしないということですね。
それでは、周りの人のために、お願いした後は、自分のことは、どうなるのかな。
この考え方は、「何妙法蓮華教」とは、異なりますね。
これは、悟りきった人の、社会に接する態度と、解釈できますが。





こんにちは!いつもお世話になっております。
>小生の場合は、2の神の力+自分の力ですが、骨折した時は、自分の力ではどうにもならなくなり、とにかく、痛みで動けない状態になりました。こんな時は3の場合だったと、思います。

私は天台宗の末寺で修行しましたが、勤行で如来・菩薩等に一切お願い事をしてはならないと言われました。但し、自分の事以外の回向功徳の事は別です。他宗派ですが、親鸞聖人も親や親族のために念仏を唱えてはならないと言っております。一切の有情のために唱えるものなのです。


堅実さん
コ鉄  さんへ

ありがとう、ございます。考え方を整理しただけです。
あとは、その人が、どう思おうと、それは自由です。

コ鉄さん
 おはようございます。堅実さん。

 歳を重ねるとともに、先祖のありがたみや父母の教えを感じたり
しますな。年賀状も儀礼的なものはなくなりお世話になった方への
やりとりが若干残っている感じです。神仏への関りとはちょっと
違うみたいですが。

 日々の行動なんてのは当然自分で切り開くものだと思いますがね。
時に人との縁なんてのに運命を感じることがありますね。

 日々奢らず、穏やかに暮らせていけることに感謝ですかね。
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