この映画ベンハーは、中学1年生の正月に兄と見た映画だ。この映画は特撮とCG画像は無く、全て、そのままで撮影している。改めて、見てみると、よくぞ、ここまで丁寧に作ったものだと思う。
おそらく、映画でこれ以上の作品を作ることは困難だろう。そして、今の私のかつての、職場でのいじめを受けた、恨みをこのように、解決しなさいと言っているようだ。(後編1時間17分)
「映画ベンハーのあらすじ」
ベンハーはメッサーラと旧知の仲。再会後、メッサーラはベンハーに、ローマ帝国にユダヤが服従しろと迫る。ベンハーは断り、2人は仲たがいになる。そして、ローマから新しい司令官が着任した時、ベンハー家の瓦が道路に落ちる。馬が驚き、司令官は馬から落ち、怪我をして、ベンハー一家は捉えられる。
ここで、ベンハーはメッサーラに、単なる事故だと言い、刑を軽くするように頼む。しかし、メッサーラは聞き入れず、重罪となり、ベンハーはガレー船(当時の軍艦)の漕ぎ手(奴隷)にされ、母と妹は投獄される。
やがて、ガレー船と海賊のガレー船の海戦があり、ベンハーを載せた司令官の船は沈む。ここでベンハーは司令官を海から助ける。この海戦はローマ軍の大勝利だった。命の恩人となったベンハーは、司令官の養子となる。
(ここからが、後編)
やがて故郷に帰ったベンハーは、復讐の鬼と化す。4頭の馬がひく戦車レースを知り、そこでメッサーラに戦う事を誓う。戦車での競争で、ベンハーは優勝し、メッサーラはこの競技中に、戦車に曳かれて死亡する。宿敵メッサーラに勝ったベンハーは、それでも心がすっきりしない。復讐したはずなのに、悲しみのどん底である。そして、母、妹がらい病に罹り、死の谷にいることを聞く。ベンハーは、嘆きの底に沈む。そして天を恨む。
こんなベンハーを見て、女の召使いが、ナザレのあの人(キリスト)の話を聞くようにベンハーを説得する。ベンハーが話を聞きに行くと、その時は裁判が終わり、ナザレのあの人は、裁判で死刑になる。ゴルゴダの丘に向かう途中、
ベンハーは、以前、砂漠で水をくれた人だと分かる。今度は、ベンハーがキリストに水をやろうとすると、ローマ兵に、邪魔をされる。(ここは、名場面ですね)
死の谷では母と娘が落胆の中に、突然、世の中が真っ暗となり、嵐と雷鳴が轟く。キリストが磔になり、天が怒っているのと同時に、あの人(キリスト)が、天に説得する。ここで、奇跡が起こる。母、娘のらい病は瞬時で回復し病気が治ってしまう。
磔の刑を見終わったベンハーは、家に帰る。女の召使い、母娘が出迎えてくれる。そしてベンハーは言う。「あの人が亡くなるとき、こう言った。父よ、彼ら全てを許したまえ。彼らは罪を知らないのです。」そしてベンハーは言う。「その声で、頭から怒りが消えていった。」そしてベンハーは母と妹の病が消え、奇跡が起こったことに、気が付く。
そしてベンハーは言う。「もう、恨みは忘れた。」物語全体が壮大で、これはキリストの教えでもある。この映画の副題は「キリストの物語」である。
この映画では、旧約聖書の恐ろしい神から、新約聖書の、愛の神に変身している場面が描かれている。神が怒り狂って、世界を真っ黒な闇にし、嵐を起こしている。それをキリストは、神に自分が全ての人類の罪を背負うから、どうか、罪深き人々に、愛で奇跡を起こしてくれと頼んでいる。神はそれを聞き入れ、ベンハーの母、娘のらい病をたちどころに治している。
ベンハーもそうだが、凡人はこうはいかない。復讐と恨みの塊である。そこであの人のことを思い浮かべ、他者へのいたわりと、愛を、あの人のように行いなさいということになる。これがキリスト教の根幹である。罪深き人々は、日夜この事を忘れず、あの人を、とうして神に祈りをささげている。
しかしこれは教義である。別な価値観を持っている人は沢山いる。最近の世相は、身勝手な自身尊重主義であり、自分さえよければ、全てよしという考えが全面に出されていると感じる。
それを助長しているのが、マスコミではないかと感じる。しかしこれも程度のことである。あまり自身尊重主義が強くなれば、この社会はぎくしゃくしたものになることは間違いない。争いや戦争は無くならない。
Ben-Hur - part3
https://www.youtube.com/watch?v=l9xRFJHqOlQ