堅実さんのブログ
湖畔の宿 5年10月29日(日)22時41分
赤城山の次は、榛名山といきます。榛名山も群馬県の山です。
湖畔の宿(昭和15年)高峰秀子。画面は、群馬県の榛名山の榛名湖と、榛名富士です。やはり、これを出さないと戦争が分かりません。
湖畔の宿 高峰秀子
https://www.youtube.com/watch?v=n3BH26TJ4sw
特攻兵を送る歌として、この曲は、人気があった。その理由は、歌の中の挿入句にある。(かっこ内は、筆者の説明)。
軍はこの歌は、戦時にふさわしくないという理由で、歌うことを禁じた。しかし、どこかで歌われて、人気が衰えないので、軍部は、黙認した事情がある。高峰秀子が歌うと、特攻兵は、直立不動で、聞いていたという。死の道に送られる歌となったのである。
この静けさ、このさみしさを、抱きしめて、私は、一人旅をゆく。
(行きたくはない。しかし、特攻機で出撃する)
だれも、恨まず、みんな、昨日の夢と、あきらめて、おさな子のような、清らかな心を持ちたい。
(この先、いろいろやりたいことは、あるが、命令で、仕方がない。恨みたい気持ちはあるが、こうなってしまった。これを、恨まずに、あきらめよう。)
そして、静かに、この美しい自然を眺めていると、ただ、ほろほろと涙がこぼれる。
(そして、静かに、この湖水と、山々を眺めていると、もう自分は、この景色さえ、見ることができない。かげろうのように、はかない短い生涯を考えると、涙が、流れてくる)
特攻兵には、志願したということであるが、志願しなくても、命令で、出撃しなければ、ならなかった。若き人で、18歳から30歳までが、ほとんどである。
女房の、父親の話では、場所は茨木の飛行場であるが、特攻に出る日は、特攻兵は、皆、ぶるぶる震えていたという。それを、むりやりゼロ戦に押し込め、外から鍵をかけたという。勇んでいったとは、とても言えない。
また、姉が嫁にいった先の話では。横手(田)曹長ですが、前橋飛行場で、訓練していたが、腹が減って、何か食べ物はないかと、食べ物をもらいに来た。よく2人で来て食べ物を、貰いにきた。サツマイモを、蒸かしたのをやると、それを食べた。何回か、食べ物を、もらいに来た。麦飯のおにぎりを、おいしそうに食べた。軍部でも、食べ物が不足していたらしい。
横手(田)曹長は、両親がいなくて、親戚の家で、食べ物とかで、ひどい仕打ちをうけ、それで軍隊なら、食べられるだろうと、軍隊に入った。それが特攻機だった。
横手(田)曹長が、出撃する前の日に、明日出撃するので、その時には、家の周りを2回、旋回するので、見てくれと伝えに来た。次の朝、庭で見ていると、飛行機は、2回旋回して、ハンカチを振っていた。そして羽根を左右に動かして、消えていった。最後だった。薄幸の若者である。楽しみなど知らず、死んでいった、短い人生である。
戦争なんか、するもんじゃないです。
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