諦めれば、生きられる。これを見て、変な言い方だと思われる人は多いと思う。今までの、ブログでは、頑張ろうとか、粘ろうとか、書いてきた。それが、諦めるとは、何だろうと思って当然なり。
これは、小生の症状、「不潔恐怖」「確認恐怖」についてです。完全に近い状態を求めるうちに、いつしか、そうなってしまった。小便をして、もっと綺麗にとか、もう少しとかと、やっているうちに、手洗い時間が長くなってしまった。これは癖でもあり、自己による自己洗脳でもある。
駅のトイレとか、スーパーのトイレとかで、他の人の手洗い時間を見ると、ほとんど、2秒である。こんなことで、人は生活しているのである。これが、完璧主義とでも言おうか。スーパーでも、一度、手を洗って、別な所で、もう一度洗う癖がついてしまった。家でもそうだ、トイレで洗って、また、洗面所で洗う癖である。家のトイレは、1.5×2メートルの広さで、車椅子が入れる大きさなので、トイレの手洗い設備は、小さいが、他の家のトイレより、大きな手洗い設備である。これは、十分手洗いが出来る条件が、そろっている。ほどほどで、よいのである。
こんな事で、日夜悩んでいる。しかし、これが原因で、過去、他の職場の事とかは、それ程、気にかけなくなって、そのまま、今まで、きてしまった。これが、結果として、よかったとも、思っている。
しかし、この洗脳状態というのは、解除するのに、難しい。生活基準がそうなってしまっている。そこで、出てきたのが、諦めれば、生きられるである。適当に、手洗いを切り上げれば、よいだけの事である。まだ、洗いたいという、気分の悪さは残るが、それで生きられればよいのである。
ふっと、思いつき、書いてみました。振り返れば、馬鹿なやつだなあ。しかし、これ、一般化すると、他でも使えるのでは。意地になって、株式をナンピンしたり、これはこうだと、頑固に、変えなかったり。それで、世間を、狭くしたり、生活空間を狭くしている人は、以外と、多いのでは。
もう一つ、これを、書いていて、漫画、「はぐれ雲」が浮かんでいる。侍であるが、世捨て人のように、だらしのない恰好をして「お姉ちゃん、あちきと遊ばない」が口癖の男。しかし、どこかに、筋の、通った生き方をしている男。そんな男が、脳裏に浮かぶ。何だろうな。