倍償千恵子といえば、やはり、これだろう。下町の太陽である。「男はつらいよ」でさくら役を演じたが、この曲は、中学3年生の修学旅行、バス旅行で、三浦半島、城ケ島、伊豆を旅行中、バスの中で数回聞いた歌で、印象が強い。6月だったので、雨が多い。そこで、伊豆半島でも、雨と霧の中で、バスガイドが、伊豆半島の十国峠の辺りで「何も見えないのでラジオでも聞きましょうか。」で聞いたのだ。
下町の太陽
https://www.youtube.com/watch?v=YIhFQ76ApcE
誰かが、「また下町の太陽だ」と、言ったのを憶えている。この曲は、2時間の間に、数回流れた。その時は、何の関心も無かったが、後で倍償千恵子は、随分と美人だなと思った。
この修学旅行と、下町の太陽と、人生が時々重なってくる。この頃が案外、「人生とは何ぞや」と、考え始める起点だったか。どういう訳か,私の基本の曲となっている。人生の出発点である。旅立ちの歌である。
この頃は夢があった。高度経済成長の時代が始まった。生活が豊になって、夢を持てる時代だった。
この頃か、集団就職で、東北から東京の大田区辺りに、仕事をする中学卒の人が多かった。そんな時代背景がある。
場面に出て来る川は、「男はつらいよ」によく出て来る荒川か墨田川か。尤も、今の人には、「男はつらいよ」と、言っても知らない人が多い。時代が変わったものだ。
その後、通信教育で、昭和46年に、慶応大学に、山の手線と、東横線で渋谷から日吉まで、夏の間、通ったことがよみがえる。この頃は、慢性膵炎の最悪の時で、先行きどうなるものかと思ったものだ。
東横線から眺める多摩川は、洗剤で汚れ、川の段差では、石鹸の泡が並び、浮き上がってシャボン玉になった。それを見て、随分、汚染されていると思った。公害だと言われた時だった。チッソの水俣病が問題になったのは、この頃である。
その時は、昭和46年である。ニクソンショックがこの時に起こった。金とドルの交換停止と、1ドル360円の固定相場制が、現在の変動相場制に変わった瞬間だった。初めは、何が何だか解らなかった。
日吉の校舎で、消費者物価指数の授業で、鈴木涼一先生が、突然、講義内容を変更し、変動相場制って何だとか、これから日本はどなるとかといった講義をした。「ニクソンショックを、この授業で、理解するように講義します。」と言い、物価指数の講義は、置いておき、この講義を1時間した。当時は、フロー経済は、成長しているがストック経済は、貧弱だと言われた。
下町の太陽の当時は、高卒の初任給が14000円の時だ。下町の太陽の映画では、倍償千恵子が家の近くで、肥え桶(人糞を入れる桶)を積んだリヤカーに、ぶつかりそうな場面が出て来る。大都会、東京でも、大抵の所が、こうだった。完全な下水道は無かった。懐かしいと思う。
この頃は、東京でも衛生車が、沢山走っていた。そんな下町の風景があり、当時の記録にもなる映画となっている。路面電車と、丸の内のビル街も出て来る。しかし、今とはかなり異なっている。激しい東京の変遷を感じる。