下町の太陽 4年5月27日(金)20時56分

堅実さん

  倍償千恵子といえば、やはり、これだろう。下町の太陽である。「男はつらいよ」でさくら役を演じたが、この曲は、中学3年生の修学旅行、バス旅行で、三浦半島、城ケ島、伊豆を旅行中、バスの中で数回聞いた歌で、印象が強い。6月だったので、雨が多い。そこで、伊豆半島でも、雨と霧の中で、バスガイドが、伊豆半島の十国峠の辺りで「何も見えないのでラジオでも聞きましょうか。」で聞いたのだ。


 下町の太陽

https://www.youtube.com/watch?v=YIhFQ76ApcE 

 

誰かが、「また下町の太陽だ」と、言ったのを憶えている。この曲は、2時間の間に、数回流れた。その時は、何の関心も無かったが、後で倍償千恵子は、随分と美人だなと思った。


 この修学旅行と、下町の太陽と、人生が時々重なってくる。この頃が案外、「人生とは何ぞや」と、考え始める起点だったか。どういう訳か,私の基本の曲となっている。人生の出発点である。旅立ちの歌である。


この頃は夢があった。高度経済成長の時代が始まった。生活が豊になって、夢を持てる時代だった。


 この頃か、集団就職で、東北から東京の大田区辺りに、仕事をする中学卒の人が多かった。そんな時代背景がある。


場面に出て来る川は、「男はつらいよ」によく出て来る荒川か墨田川か。尤も、今の人には、「男はつらいよ」と、言っても知らない人が多い。時代が変わったものだ。


その後、通信教育で、昭和46年に、慶応大学に、山の手線と、東横線で渋谷から日吉まで、夏の間、通ったことがよみがえる。この頃は、慢性膵炎の最悪の時で、先行きどうなるものかと思ったものだ。 


東横線から眺める多摩川は、洗剤で汚れ、川の段差では、石鹸の泡が並び、浮き上がってシャボン玉になった。それを見て、随分、汚染されていると思った。公害だと言われた時だった。チッソの水俣病が問題になったのは、この頃である。


 その時は、昭和46年である。ニクソンショックがこの時に起こった。金とドルの交換停止と、1ドル360円の固定相場制が、現在の変動相場制に変わった瞬間だった。初めは、何が何だか解らなかった。


日吉の校舎で、消費者物価指数の授業で、鈴木涼一先生が、突然、講義内容を変更し、変動相場制って何だとか、これから日本はどなるとかといった講義をした。「ニクソンショックを、この授業で、理解するように講義します。」と言い、物価指数の講義は、置いておき、この講義を1時間した。当時は、フロー経済は、成長しているがストック経済は、貧弱だと言われた。


下町の太陽の当時は、高卒の初任給が14000円の時だ。下町の太陽の映画では、倍償千恵子が家の近くで、肥え桶(人糞を入れる桶)を積んだリヤカーに、ぶつかりそうな場面が出て来る。大都会、東京でも、大抵の所が、こうだった。完全な下水道は無かった。懐かしいと思う。


この頃は、東京でも衛生車が、沢山走っていた。そんな下町の風景があり、当時の記録にもなる映画となっている。路面電車と、丸の内のビル街も出て来る。しかし、今とはかなり異なっている。激しい東京の変遷を感じる。


 



 

9件のコメントがあります
1~9件 / 全9件
堅実さん
888ちこ  さんへ

ありがとう、ございます。
しかし、これは、どうにもならない事です。
今の中に、心と、気持ちの準備をしておきたいです。
みん株のブログでは、私が、最高齢です。

こんばんは。

「いよいよ、人生、終末なので、今までの事を、振り返っております。
そのうちに、ミンカブのブログも、終わりになります。」
人間は誰でも人生の終末に近づきながら生きているわけですが…。

堅実さま、寂しいことをおっしゃらないでください。

堅実さん
888ちこ  さんへ

倍賞千恵子の「下町の太陽」の頃は、中学生で、高校受験でしたが、人生で、一番よかった時です。クラスでは、面白いことを言って、笑わせるのが、楽しみでした。
この頃、田舎でも、1学年で、8クラスありました。戦後のベビーブームでした。
どういう訳か、私には、三浦半島、伊豆半島が、憧れの地のような、感じでした。
西田さちこの、「エリカの花咲くとき」も、ユーチューブで聞いております。

いよいよ、人生、終末なので、今までの事を、振り返っております。
そのうちに、ミンカブのブログも、終わりになります。




こんばんは。

倍賞千恵子の「下町の太陽」
家にレコードがあります(昔?はCDではなかったんですね)^^
誰が購入したのかわかりませんが…。
彼女の声は透き通っていて、繊細にして綺麗ですね。

堅実さん
風車の弥吉  さんへ

「踊り子の、湯気の向こうに見えし、影」

踊り子が、風呂に入っている時、湯気の向こうに見えた時です。この場面は、映画でも、度々、話題になりました。
その後、船で下田港でしたっけ、桟橋で、踊り子が手を振って、見送っている姿を見て、一人になってから、泣いている主人公です。淡い恋で終わってしまいました。
しかし、これは、今の中学生には、よく、あることです。
こうやって、人は、児童から、大人になってゆくか。

こんばんは。

伊豆と言えば天城越えです。

 踊り子と 一高生の 甘い恋  季楽庵
堅実さん
ISAY企画  さんへ

それは、大変だったですね。人生、何時、どうなるか、分かりません。
明日は、どうなるか。
しかし、気持ちは、くじけず、生きたいですね。


こんばんは。
私は高速道路などや一般道が舗装されてない頃に母が起業した会社を
鬼木勝利さんに紹介された田中角栄氏に見せて対話をしてました。
そして大きな仕事を徐々にするようになって景気に乗ろうとする頃に
私は命を狙われ会社を売る事になりました。その会社が田中角栄氏が
譲渡先になって会社の財産は私の医療費と裁判の費用と父の結核の
治療費に消えました。事故前の私は母の相談役でした。
2か月間生死を彷徨い蘇りました。当時の裁判の費用が10万円でした。
その頃に私は命を引き換えに運気を使っていたようです。

堅実さん
堅実です

人生は、ストリーム、流れ、流れて、消えてゆく。


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