バイデノミクスとレッセフェールの死

著者:武者 陵司
投稿:2023/07/13 13:35

―米中対立が惹起する40年ぶりのレジームの転換―

(1)急進展する台湾有事への備え

 ウクライナ戦争は世界の民主主義諸国の価値観を根底から変え、各国の政策レジームを大転換させている。2021年までは、G7に結集する民主主義先進国の人々は法が支配する安全な秩序のもとにあるという神話を信じていた。しかし、プーチン氏のウクライナ侵略により、この世は未だに弱肉強食のジャングルの掟が貫徹しているのだ、ということを思い知らされた。

台湾進攻の蓋然性

 専制国家群と民主主義国家群の和解の無い対立が熾烈化する中で、民主主義諸国の盟主である米国は、プーチン氏とは比較にならない手強いライバルである中国に対する備えを、最大限のスピードで構築し始めた。

 深く考えれば、プーチン氏のウクライナ侵略よりは、習近平氏の台湾進攻の方がはるかにハードルが低い。中国は、(1)人口、経済力、軍事力において圧倒的優位にあること、(2)ウクライナは独立国家だが台湾は中国の一部であることを、米国も国連も認めているという道義的正当性が存在すること(もちろん民主主義諸国は認めていないが)、(3)国内の統治能力は議会制民主主義を取っている(形ばかりとは言え)ロシアより、一党独裁かつ個人への権力集中が貫徹した中国の方がはるかに大きいことの3つは否定しがたい事実である。

 加えて、中国経済の衰弱、人口減少から中国の国際的プレゼンスはここ5年がピークであり、台湾統一という国家悲願の実現には、米中の国力が最も接近している現在が最後のチャンスである、と習近平氏が考える蓋然性は高い。習氏を思い留まらせる唯一の要素は米国の介入への意志の強さしかない、少なくとも米国指導部はそのように考えているはずであり、それに対応して非常事態的政策を遂行し始めた、と見るべきだろう。

(2)バイデノミクスの成立、40年ぶりのレジーム転換

 そうした非常事態的体制として、米国でのレッセフェール(経済における自由放任主義)の否定、大きな政府へのシフトという、レーガノミクス登場以来40年ぶりのレジーム転換が実現しつつある。

レッセフェールの限界、新産業革命でトリクルダウン機能せず

 先進国経済においては、レッセフェールの限界ははっきりしていた。富が企業や富裕層に集中する一方、中間層が衰弱し、格差拡大と社会的分断が引き起こされているという現実がある。

 武者リサーチがかねて紹介してきたように、現在の米国経済には、3つの目詰まりがあるといえる。まず、(1)新産業革命が企業に超過利潤、貯蓄余剰をもたらしていること、(2)労働者の実質賃金はほとんど成長せず、家計の所得は労働外所得(資産所得と政府補助)に依存するようになっていること、(3)企業利益の8割が株主還元され株高が維持されることで(家計純資産増加、家計資産所得増加の形で)、富は家計に配分されているものの、それは十分ではなく偏りがないとはいえないことである。レッセフェールが期待したトリクルダウン(注:富が富裕層から低所得層に滴り落ち、全体が恩恵を受けるとする理論)が機能していないといえる。

ウクライナ戦争が政府による産業介入、貿易介入を正当化した

 民主党の穏健派、バイデン政権は3つの柱からなるレッセフェール修正案を提示していた。つまり、(1)成長の質の重視(格差縮小・中間層への高配分)、(2)産業政策の導入、(3)国内雇用最優先の貿易政策(消費者優先ではない)である。他方、共和党の小さな政府、レッセフェールを志向するグループはそれに反対していた。

 しかし、ウクライナ戦争勃発により、非常事態体制の確立が必要との認識が共有され、強力な産業政策が成立することとなった。また、トランプ政権から継承した対中貿易制裁、米国の輸入障壁を引き下げ国内雇用に悪影響を及ぼすと考えられるTPP(環太平洋パートナーシップ)への不参加などの貿易規制はさらに強化されている。

中・韓・台への半導体依存引き下げのためのCHIPS法

 バイデノミクスの中心が、2つの産業政策である。第一の 半導体国内生産強化のためのCHIPS法(CHIPS and Science Act,2022年8月成立)は中国、台湾、韓国への半導体供給依存を引き下げることを目的に、5年間で527億ドル(7.4兆円)の予算を投じ、米国での半導体関連生産企業に補助を与えるものである。米国半導体工業会(SIA)は、40以上の半導体および関連工場の新増設プロジェクトにより、16州で合計約2000億ドル(28兆円)の民間投資と約4万人の新規雇用が創出されると推計している。

中国のクリーンエネルギー優位をブロックするIRA(インフレ抑制法)

 第二のIRA(インフレ抑制法:Inflation Reduction Act,2022年8月成立)は、2022~2031年度の10年間に、法人税増税(15%の最低税率導入)や処方箋薬価改革によるメディケア予算の削減などで7370億ドルの歳入増を図り、3690億ドル(52兆円)が クリーンエネルギー・安全保障関連産業に補助される。そして差額の3000億ドルで財政赤字削減を見込むものである。クリーン電力に対する税控除(1603億ドル)、クリーン製造業に対する税控除(403億ドル)、クリーン建物に対する補助(453億ドル)、クリーン自動車に対する補助(155億ドル)、クリーン燃料に対する税控除(234億ドル)となっている。

(3)脱中国依存供給網の緊急性

クリーンエネルギーで中国が圧倒的存在感

 一見IRA法は環境投資に焦点を当てているように見えるが、実は中国が圧倒的に強いクリーンエネルギー関連製品をブロックする仕組みとなっていると見られる。中国はスマートフォン、PCなどのエレクトロニクス製品のみならず、環境・グリーンエネルギー・EV(電気自動車)などの分野においても圧倒的存在感を持っている。

 「太陽光発電設備の国別導入量では中国は世界一だが、太陽光パネルの材料であるウェハーの世界シェアは96%。セルのシェアも78%ある。モジュールのシェアは73%で、世界の太陽光パネルのほとんどは中国製部品に依存している。」(WEDGE online 6月8日 山本隆三氏「脱炭素、脱ロシア、脱中国…エネルギー連立方程式を解け」)

EVでの中国優位は更に圧倒的

 また、中国はEVが主流になるということを見越し、いち早くEVに補助金を与え、世界で最も積極的にEVの普及を進めてきた。IEA(国際エネルギー機関)によると2022年のEV(BEV+PHEV)販売台数は、中国590万台(前年比80%増)、欧州260万台(15%増)、米国99万台(55%増)であり、中国は世界のEV販売台数の60%近くを占めている。その結果、テスラを除いて世界の主要EVメーカーのほとんどを中国が占めるようなっている。EV最大手の比亜迪(BYD)の2023年1~6月のBEV販売台数は61.7万台(90%増)とテスラの88.9万台に肉薄している。

 2023年第1四半期において、中国が日本を抜き世界最大の自動車輸出国になった。上海汽車集団(SAIC)や比亜迪(BYD)などの中国企業のみならず、テスラ、BMWなど他の外国メーカーも、中国を輸出EVの製造拠点として活用し始めている。テスラの上海ギガファクトリーでは2022年の生産台数は71万台に上っている。フォルクスワーゲン(VW)は約10億ユーロ(約1470億円)を投じて中国にEV開発・調達センターを建設することを発表した。今やEV生産において初期投資の累積額が中国に集中し、EVのエコシステムが充実していることが背景にある。

中国で形成されたEVエコシステム

 中国は、EVのエコシステムとしてのバッテリー・バッテリー部品生産、バッテリー素材メタルの資源確保と精錬など川上分野でも、過半のシェアを押さえている。バッテリーメタルの埋蔵量はチリ、アルゼンチン、コンゴ、インドネシア、オーストラリア、ブラジルなどに集中しているが、中国はいち早く上流益を抑えることで、精錬においては圧倒的シェアを確保している。

 こうしたEV化における中国の規模のメリットに対して、日独米の自動車メーカーは大きく遅れを取る可能性が出てくる。EV化が急進展している欧州では、中国の急速な浸透を抑えるために、2035年の100%EV化の旗を降ろした。こうした趨勢の中で、米国産のEV、バッテリーのみに補助を与える米国IRAは、中国メーカーの米国参入に対する大きなブロックとなるだろう。バッテリーを米国生産しているパナソニック ホールディングス <6752> [東証P]はその恩恵をフルに享受しており、設備投資を急増させている。稼働中のネバダ州に続いてカンザス州、オクラホマ州でも工場建設を計画し、現在の50ギガワットから2028年には150~200ギガワットへと能力を増強する。

(4)米国で起き始めた産業投資の波

 CHIPS法、IRAの施行によって米国産業に大きな変化が起きている。2023年に入って米国での製造業建設投資が急増している。また、SEMI(国際半導体製造装置材料協会)の推計による半導体設備投資の各国別推移をみると、2023年前半をピークに中国が大きく減少する一方、米国の突出した伸びが想定されている。海外製品に押されてきた米国産業機械市場が大きく飛躍する場面に入った可能性がある。

 以上のような積極的財政支出が、厳しい金融引き締めにもかかわらず米国の好景況を維持させている一因である可能性もある。

(2023年7月11日記 武者リサーチ「ストラテジーブレティン336号」を転載)

配信元: みんかぶ株式コラム

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