「死に至る病」cash is king mentalityに侵されている日本
日本経済の諸悪の根源はデフレであり、デフレの起点にあるものがデフレ・マインドだ。「デフレだから現金で持っていた方がよい」という極端な現金志向が、日本を何をやっても駄目な国にしてしまった。お金はものに変わり、持ち主が替わることによって、循環し価値を高めていく。それが資本主義である。
しかし、デフレによりお金を持ち続ければ価値が増える、という錯覚が共有されるようになり、日本ではお金の循環が止まってしまった。お金は経済の血液であるから、循環が止まると人と同じように経済も死んでしまう。デフレは、マルクス経済学でいう貨幣の形態転換(G-W-ΔG)の否定である。資本主義は無限の価値増殖の連鎖であるから、貨幣の形態転換の否定は、資本主義の死でもある。
日本資本主義が貨幣が貨幣のまま保存されるという「死に至る病」に侵されている、という本質的認識が重要である。この無為の正当化は経済だけでなく、広く人々の行動を抑制し、心理学でいう「学習性無力感」=無気力症候群を定着させてしまった。
日本のデフレの深刻さに対して、我々はあまりにも鈍感すぎた。白川前日銀総裁は「出発点は98年から始まった日本の物価下落であった。ただし下落といっても、12年末までの累計で4%弱、年平均で0.3%の緩やかな下落であり、わずか数年間で物価が20~30%近くも下落し失業も急増した30年代の内外のデフレ経験とは大きく異なる」「本当の課題はデフレ脱却、物価上昇率の引き上げということではなかった」(週刊「東洋経済」2023年1月21日号)と述べ、デフレのリスクを強調しすぎることを批判している。
確かに2000年代初頭においては、マイルドな日本の物価下落は、デフレスパイラルとは異なり、深刻なものではないとも思われた。しかし、今日に至って振り返ると、長期にわたるデフレが日本人のメンタリティーを根底から変え、アニマルスピリットを破壊してしまったことを認識しないわけにはいかない。
機能不全に陥った金融市場
いくら企業が富を生み、株式の本源的価値が高まっても、デフレが続く限り、現金を持ち続ける方が有利になる。日本企業の収益力は著しく高まり、利益は史上最高水準にある。にもかかわらず、株価が低迷し極端な割安の状態にある。日本の金融市場がまっとうな価値評価に基づく、資本配分の場として全く機能しなくなっている。
日本と米国の家計の資産配分(年金保険の準備金を除く)を比較すると、日本はリターンゼロの現預金・債券が全体の76%と大部分を占め、配当利回り2.5%、益回りで見れば8%と著しくリターンが高い株・投信はわずか20%の構成となっている。
他方、米国は73%が株式・投信、現預金・債券は23%である。これほどのリターン格差があるのにそれが全く埋められていないのは、日本の金融市場が壊れているからである。
アニマルスピリットの度合いは、株式と債券との利回り格差によって観察できる。日米の両者のスプレッドを振り返ると、現在の日本の株式と債券のリターン格差は史上空前で、米国ではYCC(イールドカーブ・コントロール)が導入されていた第二次大戦直後の1940年代に匹敵するものであることがわかる。日本資本主義が「死に至る病」に侵されているという基本的な証拠である。
YCC修正が引き金を引いたインフレ期待
この日本の根本的病理との闘いという観点から考えると、昨年12月の日銀によるYCC政策の変更(=これまで0.25%にしていた10年国債利回りの上限の0.5%への引き上げ)は、大きな画期であるとみられる。黒田総裁は、投機筋を勢いづかせることを懸念して、今回の変更は微調整で異次元の緩和は継続され続け何も変わらないと説明しているが、その説明は苦しい。2016年のYCC導入以降、初めての事実上の利上げであり、異次元緩和の出口に向かう第一歩であると見ないわけにはいかない。
しかし、デフレ脱却が展望できるようになったからこそ、利上げが視野に入ったのであり、これは異次元金融緩和が勝利に近づいている証だとも考えられる。
多数派のメディアやエコノミストが主張する、「日銀はヘッジファンドの日本国債売りに押されて不本意な利上げに追い込まれた」というネガティブな見方は間違いである。第1に、2%インフレ目標の実現可能性が高まってきたから日銀は自らの判断によって利上げした、第2に更なる国債売りのチャレンジは続くだろうが、日銀はいくらでも国債を購入し時期尚早の金利上昇を抑えることができる。為替か国内景気かの二者択一を迫られた1992年のBOE(イングランド銀行)とは異なり、日銀はジレンマには追い込まれてはいないのである。
投資家と企業の「cash is king mentality」が抜本的に変わる
金利が上昇する世界が示唆された今、これから連鎖的に何が起きるかを注視する必要がある。まず、ゼロ金利が続くとのんびり構えていた投資家は、態度をがらりと変えざるを得ない。金利が上昇するということは債券の値段が下がるということ。年金・保険などの機関投資家や金融機関、個人はこれまでの債券主体であったポートフォリオを株式主体に組み替えることが必要になってくる。
異常な自己資本比率の高さ、ROEの低さが修正されていく
また企業も、安全性を極端に偏重し、資本効率を犠牲にしてきた財務戦略の大転換を迫られる。バブル崩壊以降、日本企業は負債を減らし利益の社外流出を抑え、ひたすら自己資本を厚くするという保守的財務戦略に徹してきた。日本企業の自己資本比率は1975年の14%をボトムに一貫して上昇し、直近では43%に達し、欧米の2倍近くとなっている。この異常な自己資本比率の高さが、日本企業の収益力を低め、株価低迷の原因となっている。
ROE(自己資本利益率)を日米で比較すると、日本(TOPIX平均)8%、米国(S&P500平均)21%と極端な差がある。また、PBR(株価純資産倍率)は日本1.1倍、米国3.9倍と4倍も引き離されている。いずれも自己資本を多く持ちすぎていることに原因がある。
そもそも自己資本はコストゼロではなく、株主に相当の報酬(東証平均では配当2.5%、株式益回り8%)を払う責任を負っている。現在1%程度の負債と比べて著しく高いコスト資金源泉なので、自己資本を減らして全体としての資本コストを下げることが合理的である。
今のうちに負債(借金や債券)を増やし自己資本を減らして、資本コストを下げなければ、競争に勝てない。資本コストを引き下げ、M&Aや新規投資を積極的に行う必要がある。まずは手っ取り早い自社株買いを加速させ、高株価経営を徹底させる必要がある。米国では自社株買いが最大の株式投資主体となって久しいが、ROE経営の定着によって日本でも、自社株買いが大きく増加していくことは間違いない。
このようにして企業も投資家も債券を売って、株を買うという、資本の大移動を他に先んじて引き起こさざるを得なくなるのである。今回の政策変更が引き金を引いた金利上昇の長期トレンドは、日本の株式需給を飛躍的に好転させるものになるだろう。
年初の乱気流、日本売りの正体、誤った日銀批判
今年の日本経済展望は先進国の中で最も明るい。2023年の成長見通しをIMF(国際通貨基金)は米国1.0%、ユーロ圏0.5%、日本1.6%(2022年10月時点)、OECD(経済協力開発機構)は米国0.5%、ユーロ圏0.5% 、日本1.8%(11月時点)、世銀は米国0.5%、ユーロ圏0.0%、日本1.0%(2023年1月時点)と予想しており、先進国の中で日本が一番高くなっている。
日本経済は、(1)世界的金融引き締めの中で唯一緩和基調が維持されていること、(2)パンデミックに対する過剰反応及び消費税増税によりコロナ後の経済の落ち込みが主要国中で最も大きかったが、その反動が期待できること(コロナ禍直前の2019年10月の消費税引き上げが1.2~3%程度日本の総需要を抑制し続けてきた)、(3)円安のプラス効果が発現すること、など多くの固有のプラス要因がある。
それなのに年初、世界株高の中、日本株は大幅な下落でスタートした。欧米では利上げの打ち止めが見え始めているのに、日本ではこれから利上げが始まるとの観測がグローバル投資家の間に広がったからである。
しかし、それが誤解であることは以上の説明から明らかであろう。グローバル投資家は日本株式を再評価してくるものとみられる。
資本の大移動を引き起こす黒田総裁の英断
YCCが「インフレ予想を促しながら、それを反映する長期金利を人為的に抑制するのは矛盾している。2%インフレが達成されるなら放棄せざるを得ない政策であった。」(日本経済新聞1月21日付「大機小機」)。そうした無理のある政策が必要となったのは、金利がマイナスに沈み、円高が進行するという異常な金融事態が起きていたからである。円高の懸念、マイナス金利の懸念が払拭された今は、正常化に向けての好機であった。
このタイミングで黒田総裁はYCC変更を市場の意表を突いて挙行し、インフレ期待を高め長期金利上昇を示唆して人々の投資行動の変容を引き起こした。それが株式需給を根底的に変え、資本の大移動を引き起こすものとなるかもしれない。その判断の正しさは、これから起こる日本株高で証明されることになるだろう。後世に歴史的英断と評価されるかもしれない。
(2023年1月23日記 武者リサーチ「ストラテジーブレティン323号」を転載)
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