スイスイ論語(5) -君子は其の言の其の行に過ぐるを恥ず-

ユリウスさん
ユリウスさん
読売新聞(9/3夕刊)の「スイスイ論語」(クリックして拡大すれば読めます)


 本日の安岡定子さんの「スイスイ論語」は憲問第十四より選ばれたこの言葉です。

君子は其の言の其の行に過ぐるを恥ず。(憲問十四より)

「金谷 治先生の訳」
君子は、自分の言葉が実践よりも以上になることを恥じとする。

※この言葉は我が国に伝わった古い本では定子さんの読み方になっているので、上の訳もすなおにその通りになっています。
ところが、新注といわれる本ではちょっと違っている。どう違うかについては、諸橋轍次、吉川幸次郎、金谷治の三先生とも、同じことを指摘されているのでちょっと触れておきます。


(古注) 君子恥其言之過其行也
(新注) 君子恥其言而過其行也
上のように「之」と「而」の違いによって、ニュアンスが違ってくる。
諸橋轍次先生は新注に基づいた訳として
君子は自分の言葉に実行が伴わぬことを恥じて言葉を慎み、言葉以上の実践躬行するよう努める。
と言っておられる。

どちらが正しいとかいう問題ではないし、意味するところは同じですが、翔年は諸橋先生の訳の方がより含蓄が深くて、君子らしいと言葉だと思っています。

閑話休題。

論語は全部で二十編ある。各編それぞれその編の最初に出てくる二字或いは三字をとって編名としています。昔は一編ごとに一つの巻物としていたから、その編の順序を示すために第一、第二という言葉を付したらしいですね。



 参考までに論語の全編名を読み仮名付きで記して、これまでの「スイスイ論語」がどの編からピックアップされたかを示しておきます。
 今のところ、定子さんがどのような意図で各編からピックアップされたのか分かりませんが、いずれご本人から明らかにされることでしょう。

 翔年としては、出来るだけ長く続けていただきたいと思っています。何故かといいますと、若い時は「論語」と聞いただけで、「古臭い」という思いが強くて敬遠しますが、社会に出て20年ぐらい過ぎて、よく言えば人生のベテランと言われる年になると、論語の一語一語が心に沁みてくるように思うからです。今まで、敬して遠ざけていた方も、一度論語を紐解いていただきたいと思っています。

学而(ガクジ)第一
為政(イセイ)第二 (スイスイ論語2と3)
八佾(ハチイツ)第三
理仁(リジン)第四
公冶長(コウヤチョウ)第五
擁也(ヨウヤ)第六
述而(ジュツジ)第七
泰伯(タイハク)第八
子罕(シカン)第九
郷党(キョウトウ)第十
先進(センシン)第十一
顔淵(ガンエン)第十二
子路(しろ)第十三
憲問(ケンモン)第十四 (スイスイ論語5)
衛霊公(エイレイコウ)第十五 (スイスイ論語4)
季氏(キシ)第十六
陽貨(ヨウカ)第十七 (スイスイ論語1)
微子(ビシ)第十八
子帳(シチョウ)第十九
堯曰(ギョウエツ)第二十




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