戦国時代に四国を制した長曾我部元親。 だがさしもの四国の雄も、当時飛ぶ鳥を落とす勢いの豊臣秀吉にはかなわず、敗れて土佐一国の太守に据え置かれます。
その後、家督を継いだのが4男の盛親です。
長曾我部盛親は身の丈180㎝を超える大男で、男ぶりもよかったそうな。
天下分け目の関ヶ原の合戦の際は、早々と「東軍徳川家康につく」と断を下しました。この時点では勝ち馬についてたわけです。
ところが不運なことに、家康への書状を携えた密使が西軍の関所にはばまれてしまって土佐へ帰ってきてしまいました。
事態は急を要します。のんびりしていると今度は西軍からの攻撃を受けるやもしれません。そこで盛親は一転して西軍に味方することに態度を変えました。
「あとは運任せだ」 と盛親は言ったそうですが、勝ち馬に賭けられなかった無念さが、その言葉尻ににじみ出ています。
さあ、そんなこんなで迎えた関ヶ原の大決戦。 盛親は6千の兵をもって布陣しますが、すぐ隣の1万を超える毛利勢の動きが気になって、動くに動けません。 実は毛利勢は、すでに東軍に内通していたのでありました。
ジリジリしながら戦局を見つめる盛親。だが無情にも正午過ぎ、これまで西軍だった小早川秀秋が裏切って、西軍は総崩れ。ついに盛親は一戦も交えずして敗走することとなってしまいました。
戦後処理で盛親は土佐22万石を没収。命だけは助けられたものの、一介の浪人に落とされてしまいました。 もともと彼は勝ち馬にちゃんと賭けていたのですが、不運な人です。
大名から浪人へ・・ 「テンドン」というやつです。 もはや人生やる気無くして投げてしまいそうなところですが、その後盛親は、にゃんと、寺子屋の先生として立派に生計を立てたのでした。 この辺偉いですね。
庶民の子供たち相手にどんな授業をしていたのか・・興味深いところですが残念ながら資料は残っていませんので不明です。
そうして平穏無事な生活がしばらく続きましたが、やがて大坂の陣が勃発。盛親は豊臣秀頼に招かれ、大阪城に入ります。
大坂冬の陣では真田丸の戦いに参加。こう着状態のまま和議成立。
続く夏の陣においては藤堂高虎隊と対決し、これを破りますが、応援に駆け付けた井伊直正隊に阻まれ、やむなく大阪城に帰還。
その後大阪城の守備に就いていた盛親でしたが、天王寺、岡山の戦いにおいて真田幸村が敗れたため、
「われら運さえ良ければ天下は大坂たるよ」
と言い残して逃走。
しかしついに最後まで運は盛親には味方せず、やがて発見されて京都六条河原で斬首となってしまいました。 享年41歳。
長曾我部盛親の人生を振り返ってみると、家康への密使が関所に阻まれたのが数奇な生涯の始まりだったと言えそうです。 そこでうまくいってれば、大大名になったかもしれないのに・・ ホント人生はどうなるかわからんもんです。