moroboshidanさんのブログ
特別編
今週は、ウルトラセブン本放送のなかった週なので、円谷プロ生みの親である円谷英二について紹介します。
後に「特撮の神様」と呼ばれることになる円谷英二は1901年7月7日に、現在の福島県須賀川市で生まれました。(この時から「7」に縁があったのですね)
飛行機のパイロットにあこがれて、15歳のときに羽田の日本飛行機学校に第一期生として入学しましたが、翌年、一機しかなかった飛行機が墜落し、教官が死亡してしまったため、学校が活動停止となり退学を余儀なくされ、夢をあきらめざるを得なくなりました。
その後、玩具会社を経て、カメラマンとして国際活映という会社に入社しました。
円谷は、次々と斬新な撮影技術を考案していきますが、当時の映画界は、それを理解することができず、不遇の時期を過ごしていたようです。
1933年、キングコングの映画が日本で公開された際、この特撮を見て大きな衝撃を受けました。
1937年、東宝が創立された際、彼は部下のいない「特殊技術課長」として迎えられ、研究予算を得て、国産初のオプチカルプリンターの開発に取り組みます。
彼は戦時中に国策映画の制作に加わりました。
中でも、1942年に公開された「ハワイ・マレー沖海戦」は、真珠湾攻撃の特撮シーンのあまりにリアルな描写に、GHQも「本物の記録映像」と思い込んでいたほどでした。
しかし、敗戦後はその戦意高揚映画に加担していたという理由でGHQから公職追放を受けます。
この時期に「円谷特殊技術研究所」を設立し、映画の特撮部門を請け負ったのですが、経済的には困窮していました。
ようやく1952年、日本独立後の公職追放解除を受け、東宝に復帰します。
そしていよいよ1954年、「ゴジラ」が公開され、大ヒットします。
その後、制作した戦争映画、怪獣映画が次々とヒット、海外でも有名になります。
1963年「株式会社円谷特技プロダクション」を設立し、社長に就任、アメリカから最新型のオプチカルプリンターを導入します。
その後、テレビに進出し、「ウルトラQ」、「ウルトラマン」、「ウルトラセブン」を制作、怪獣ブームを起こし、「特撮の神様」と呼ばれるようになったのです。
1970年、68歳で永眠されています。
このように、円谷英二の生涯を振り返ってみると、SF特撮テレビ番組の最高傑作と言われる「ウルトラセブン」でさえ、彼の関わった作品の中の一つでしかなく、あまりにも偉大なその功績に、ただ茫然としてしまうのでした。
今週は、銘柄研究はお休みとします。
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こんばんは。
帰ってきたウルトラマンより後はあんまり面白くない。という意見をよく耳にします。
もっと長生きして、黒澤明みたいに面白い作品を沢山つくってほしかったですね。
カイオワさん おはよう。
68年という生涯を、太く短く生きられたのでしょうね。