こんなことを考えていると、この喧騒の世の中で、山奥で、一人住んでみたいとふっと思う時がある。古代中国の竹林の七賢(3世紀、魏の末期の7人。当時の知識人の命がけの批判表明と言われている。この後、晋の時代になると老荘思想がさかんになる。実際には隠遁生活をしていない。)を思い起こす。
しかし、その山の隠遁(いんとん)の生活は、不便なことだらけである。第一、夏には蚊が出てきて、静かに外を歩けない。蚊くらいならまだいい。熊がこの群馬の北部や、長野の軽井沢にはいる。それに衣食住に不自由する。相当の資産家で、買い物は、業者が庭先まで運んでくるようでないと、まずできないことである。それに一人では、安全が保たれるのも難しい。そうなると、雑音だらけの、この地方の都市で生きるということか。また、何度も出てくるが「小人閑居して不善を為す」の生活のほうが、特に努力を要する目的を持つより、ましかもしれない。しかし、あえて、この「のんびり人生」に背を向けて生きてきたのである。
19日の日経新聞に、放送大学の宣伝があった。10月からの入学生募集である。これは、わたしは、3科目受講したことがある。成績は、マルAが2つ、Aが1つでした。やれるだけは学習してみたのである。これも、社会を考えるのに役立っていると思う。これは1科目でも受講できる。そして正式な受講とまでいかなくても、テキストを購入し、単位はとれないが、学習することもできる。
しかし、やはり、学習を続けることは楽しいことである。それは何と言っても、世界が広がることである。丁度、旅行をして世界を見て回るようである。有限の終わりある人生である。わたしには、これしかないのである。いくらやっても、ほめられもしない。収入が多くなることでもない。そんな、つまらない事なのである。しかし、それはひとつの見方しかない。ほめられなくても、それで収入が特に増えなくても常に自己変革するという姿勢や気力は、何か生命力の強さとでもいうものだろうか。精神の強靭さという底力を感ずるのである。
(現実には、少しは増える可能性はあります。これがまた、夢となるのです。特に、そうしようとしなくとも、そうなる確率が上がるのです。これは他から見ると、恐ろしく見えるとも言えます。こんなやつとは戦えないということにもなります。怖い存在にもなります。)
昨日のわたしは、今日のわたしではない。今日のわたしは、変革した、わたしなのである。新しい知識で世界を分析できることは、これまた楽しいことなのである。それは丁度、高校野球で頂点を目指して練習する姿と、少しは似ているのである。
少し、誇張すぎた面もある。しかし、このくらいの気概を時々持たないと、この老人には、朝起きて、夕方の来るのを待つような生活になってしまうのです。