「一茶」と女流俳人「花嬌」と親交、死後、永住覚悟で信州へ

Ukiyoさん
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女流俳人織本花嬌の代表句といえば、

     「名月や乳房くはへて指さして」   花嬌
     「名月をとってくれろと泣く子かな」 一茶


 文化6(1809)年3月5日、花嬌は隠居所「対潮庵」に一茶
をむかえ、大乗寺住職徳阿(とくあ)、医師糟谷文東、貞印尼、
娘婿子盛らと句会を催している。連句


     「かい曲り寝て見る藤の咲にけり    (花嬌)、
     薪(き)を割る音に春の暮(くれ)行(ゆく) (文東)、
     細長い山のはづれに雉子鳴いて    (一茶)、
     鍋ぶた程に出(いづ)る夕月       (花嬌)…  」 


翌文化7(1810)年4月3日花嬌死去。葬儀に間に合わず。

一茶47歳であった。

              法名を妙蓮院珍誉寶臺華嬌禪尼という。

 7月13日   富津大乗寺での花嬌百日忌の悼句


    「草花やいふもかたるも秋の風」
    「蕣(あさがお)の花もきのふのきのふ哉」。


翌文化8(1811)年7月10日  織本家に3泊、
翌文化9(1812)年4月3日  花嬌三回忌、
              4日  花嬌追善会。

    「目ざましの牡丹芍薬でありしよな」
    「何ぞいうはりあいもなし芥子(けしの)花(はな)」。


 4月10日 織本家に入り
 12日から「花嬌家集」「追善集」(「追善迹(あと)錦か」)を編集、
 5月3日完成した。(現在両書とも行方不明。
「早稲田文学」大正8年7月号の相馬御風『一茶の遺跡を訪ふ記』

によると、一茶が絶えず所持していた手行李に 一茶の書いた

花嬌家集が前編と後編と二冊納められていたという。)
実はこの三回忌に来る途中、木更津への船中で、


   「亡き母や海見る度に見る度に」の句を詠んでいる。


文化9年11月信州永住覚悟し帰郷する。


文化14(1817)5月5日、一茶は富津に行き大乗寺に泊まり、


    花嬌墓前に「露の世は得心ながらさりながら」の句を捧げ、

            露の世は露の世ながらさりながら (文政)


 6日から織本家に5泊した。


   以後上総に来ることはなかった。以後の人生は・・・・・・・・

北信濃 小林一茶 終焉 の土蔵 (国史跡)



○ 織本花嬌 ?-1810 江戸時代後期の俳人。
  上総(かずさ)(千葉県)周淮郡富津(ふっつ)村の名主織本嘉右衛門
  (号は砂明)の妻。夫らとともに大島蓼太(りょうた),小林一茶(いっさ)

  らと交際した。


 

 

 

「一茶」と女流俳人「花嬌」と親交、死後、永住覚悟で信州へ

 

 

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