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教科書・資料集からこの狂歌が消えた?
「太平のねむりを覚ます上喜撰、たった四杯で夜も眠れず 」
明治になってからの作とのことで・・・
しかし、当時の資料発見される・・・
ここでは上喜撰か正喜撰について考えてみます
下の方のコメント欄をご覧下さい
コメント欄はメモ用(書き換え中)で申し訳ありません
(naganoukiyoeネット資料館)
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教科書・資料集からこの狂歌が消えた?
「太平のねむりを覚ます上喜撰、たった四杯で夜も眠れず 」
明治になってからの作とのことで・・・
しかし、当時の資料発見される・・・
ここでは上喜撰か正喜撰について考えてみます
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(naganoukiyoeネット資料館)
宇治茶は茶名で呼ばれていた。喜撰は茶の隠語?
1638年(寛永15年)以後は宇治茶のほとんどが茶銘を付して呼ばれるようになった。
江戸中期以降、宇治の茶園には他に例のないくらい高い年貢が課され、大衆が日常
的に茶を飲むようになったことで茶産地が増加し、宇治茶業界は斜陽の時代を迎え
た。しかし1738年(元文3年)、宇治田原の永谷宗円が宇治茶製法を確立し、宗円
や茶商山本屋、売茶翁によって江戸で大々的に販売され、宇治は煎茶の産地として
復活した。1834年(天保5年)宇治で玉露製法が創製され、以後覆下茶園が急速に
拡大しました。
喜撰は茶の隠語としもあったようですがどこで使われたのか分かりません。
いずれにしても当時は上喜撰で庶民誰も何か分かったのでしょう
狂歌茶器財画像集と盛んな狂歌会
江戸の天明から、狂歌がひとつの社会現象化しました。これ以後、狂歌の愛好者らは狂歌連を作って創作に励んだ ようです。
安政2年の「狂歌茶器財画像集」は檜垣連を中心とする狂歌撰集で、入集者の在地は京都・江戸は勿論、北は仙台・越後、南は阿波・讃岐など幅広く、同連の交友関係の広さが知られる。入集者の中には祇園、島原の女性の名前も見え、地方や花街における狂歌文化の広がりが感じられるといいます。表紙、挿絵に山本山の趣向が見られるほか、序文や狂歌にも茶に言及したものが多い。これは本書の選者の一人、山本都竜軒(山本山
茶舗六代目主人)が刊行に深くかかわったという資料です。奥さんも参加。
「上喜撰」は他の問屋のものです。当時狂歌会では類似作もきっと耳に入ったでしょう。ひょっとしたらこっそり自分たちも作っていたのかもしれません。内容から作者を公表できるわけがありません。明治には俳句は地方のすみずみまで盛んになり今日まで続いています。後世の作ではないかなどとどうして思ったのでしょう。
こんな名狂歌滅多に創作できないでしょう。
当時お茶「上喜撰」は何種も狂歌にうたわれ誰もが知っていたのでしょう。
浮世絵を拡大してみて下さい。
所有の浮世絵(画像)は販売目的ではないようで改印、版元はありません
が紙質、色合いから江戸期のものと思っています。
「山本山」と「上喜撰」が出ています
山本山についての天保7年ころに資料があります
「買う者立ち並び客は市の如く」 山本山 山本嘉兵衛
天保七年の秋刊行せられし▼江戸名物狂詩選と云へる書物にも『買者立并家如レ市。
番頭手代少無レ間。一時売出三千斤。多是自園山本山』と著者は咏吟[えいぎん]
せしが、今も昔も変[かは]らぬ繁昌は真[まこと]に此詩[このし]の如し。
浮世絵の上喜撰の喜は略字になっています。
上喜撰についての資料は茶名以外みあたりません。
正喜撰は維新前より誰もが知っている茶名で大衆化されています。
理由は不明ですが上喜撰は正喜撰にかえられたといいます。
事件以後突然変更が本当ならあの狂歌はこんなところまで影響を与えたことになります。
きっと「山本山」以上に人気が出たことでしょう。
小説ができそうです。
●Wikipedea
上喜撰(じょうきせん)は、緑茶の銘柄(ブランド名)。宇治の高級茶。本来の銘柄名は喜撰で、その上等なものを上喜撰(あるいは正喜撰)と呼んだ。
1853年、ペリーによる浦賀への黒船来航(蒸気船)とかけた狂歌「泰平の眠りをさます上喜撰 たつた四杯で夜も寝られず」で有名。幕府の狼狽ぶりを皮肉った。
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●「本来の銘柄名は喜撰で、その上等なものを上喜撰(あるいは正喜撰)と呼んだ。」
この表現が多くの人に誤解を与えている。
●お茶の銘柄上喜撰が正喜撰に変わっている。江戸期のいつか?
●収集中の江戸期 明治期の引き札などで調査中です。
類似品が出たため?狂歌のため幕府批判と考え遠慮か?幕府より何らかの圧力がかかったからなのか?最近上喜撰の復刻品でています。
有名な狂歌が明治期の作ではないかなんて考えられません。
あれほど知られたお茶名「上喜撰」は不思議なことに早くから消えています。
教科書からあの有名な狂歌が消える以上に大きな謎のように思っています。
何故消え、変えたとすればどんな理由で正喜撰に変えられたのでしょうか。
資料を調べていますが江戸期のどこまでさかのぼれるかです。
武功年表には黒船についてかたり入牢した件がかかれていますが
影響の大きかった「上喜撰」名も御茶師や製茶問屋などの間でも話題
になったに違いありません。
書き換え中の文章です。参考になることありましたら教えて下さい。
(naganoukiyoe のブログよりコメントできます)
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当世流行とふ化狂歌(『あさぶくろ』) 検索できます。
「泰平の眠りを覚ます上喜撰たつた四杯で夜も寝られず」が変形したもの。
蒸気船と上喜撰の掛詩がみえる。
毛唐人なそとちやにして上きせん
たつた四はいてよるもねられぬ
日本をちやにしてきたが上きせ
水かあらくてむまくのめない
(東京大学史料編纂所蔵)
最近発見された資料 次のコピーで検索できます
狂歌「泰平のねむりをさます上喜撰~」の謎を解く(2010年7月
松陰の直筆?「流言録」山口・萩の民家で発見(朝日新聞2002-
狂歌「太平のねむりをさます上喜撰、たった四杯で夜も眠れず」
ペリー来航直後の歌は 正喜撰 ではなく 上喜撰 です。
荷主(生産者・仲買人)が川舟で大坂淀橋の港まで持ってくる。廻船問屋が調達した廻船で江戸まで運び、江戸の茶商に引き渡される。(図参照)
この浮世絵は製茶問屋が地方の問屋に配布したものと思います。
改め印や版元が鳴くサイズは 40×38 の普通の浮世絵の倍です。
山本山もありますし、上喜撰もでてきます。
古文書には上喜撰はでてきますが浮世絵でははじめて見ます
色彩・紙質から江戸期のものです。
山本山は明治以降続きますが上喜撰は類似品がでまわったとの理由で正喜撰に変わったといいます。
私は世の中を騒がせた狂歌のため幕府に遠慮の気持ちもあったり人気を心配したこともあったのはないかと思っています。
○太平のねむけを覚ます上喜撰、たった四杯で夜も眠れず (ねむけ→眠り)
○アメリカがのませにきたり上喜撰、たった四杯で夜も眠れず
蒸気船の解説に上喜撰(または正喜撰)などとの記述が多くありますが括弧は必要ないと思っています
また明治になった作られたのではとの理由ですべてかどうかわかりませんが教科書や資料集から消えたと最近知りました。
私の収集した地方の製茶問屋の引き札には明治前から上喜撰なる茶名は出てきません。
その後正喜撰と換えられても類似品は多く出回っているようです。
問題の狂歌がペリー来航直後からあったことは発見された資料などから明らかですが、上喜撰の茶名が消えたわけのほうが私には関心があります。
蘭字とよばれる茶箱ラベルは輸出用ですが、国内の輸送には図のようなものが貼られていました。
書き換え中です(平成24年6月28日)
「喜撰」とは煎茶の茶銘で、六歌仙のひとりである喜撰法師が修行し
たという伝説を持つ、山城国池尾村の喜撰山にちなんだものです。
良質のお茶は全国に広く親しまれました。
ペリー提督の乗った黒船来航の際には「泰平の 眠りをさます 上喜撰
たった四杯で 夜も眠れず」というあわただしい世相を「上喜撰」を題材
に何種か残っています。しかし、類似品との区別のためか「正喜撰(し
ょうきせん」の銘に変更されたようです。正喜撰に変更後も全国で愛飲
されました 。
(変更時期は収集の引き札など調べていますが最近の復刻以外は
明治には上喜撰は見当たりません。本当に不思議です。)
この狂歌にでてくる上喜撰とは上質のお茶のことで、これを飲むと夜に
眠れなくなる。上 喜撰と蒸気船をかけおり、黒船(実際は蒸気船2隻と
帆船2隻)の出現は、日本人にとって夜に眠れなくなるほどの衝撃でし
た。 巨大で異様な黒船に江戸市民は大騒ぎとなり、数多くの狂歌が
地方に発信されました。
参考
●最近発見された資料※後で追加予定
●『藤岡屋日記 第五巻』(藤岡屋由蔵・嘉永六年(1853)記)
毛唐人は抔と茶にして上喜撰 夜はうかされてねむられもせず
阿部川は評判程にうまくなし 上喜せんにはわるひ御茶うけ
日本を茶にして来たる上喜撰 安部川餅へみそをつけたり
●武江年表
斉藤月岑 ( げっしん 1804~1878 年 ) は江戸神田雉子町
の町名主を勤め、著述家「 武江年表 」 や 「 増補浮世絵類考 」
嘉永3年(1850年)に一度完成したものの、後に明治維新の変革を迎
えたために、追加の記事が加えられて明治11年(1878年)1月に明治
6年(1873年)までの分が完成された。