ユリウスさんのブログ

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才媛-小式部の巻

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大江山いく野の道の遠ければ まだふみも見ず天の橋立    小式部内侍

 小式部の母は和泉式部。娘を生んだ後、夫の和泉守道貞が病死してしまったので、娘をつれて藤原保昌に嫁いだという。その娘、小式部は幼少の頃から歌をよくすると評判であったが、その才を妬んで「小式部の歌は多くは母の和泉式部が与えているものだ」という人もいた。
 母の式部が夫の保昌と共に任地の丹後に行っていた時、京で歌合せがあり、小式部はその会に呼ばれて歌を読んでいたところ、中納言定頼がたわぶれて「丹後へ使いの人をだしました? 母上から便りはあった? 心細いことでしょうな!(ニヤリ)」と言いながら通り過ぎた。(何時の時代でも、若い女人にこういう嫌味なちょっかいを出す男はいる。ひょっとしたら、翔年もそういう男に見られているかもしれません)

 このたわぶれを聞きとがめた小式部、定頼の直衣の袖を掴んで詠んだのがこの歌だというから凄い。この当意即妙ぶりに定頼は返歌もできずに、袖を引っぱりかえして逃げた。

(意訳)
母の下っている丹後の国府は、大江山を越え、生野を通ってゆく道が遠いので、まだあの名勝の天橋立を踏んでみたこともなく、母からの文なども見ていませんよ。

※大江山=丹波路の入り口の山、大江坂(おいのさか)ともいうから、今の老いの坂峠の付近だろう。酒呑童子で有名な丹後の大江山ではない。
いく野=生野は現在の福知山市にある。「行く」をかけている。
ふみ=「踏み」と「文」をかける。さらに「踏み」は橋の縁語でもある。



 尾崎雅嘉著「百人一首人夕話(ヒトヨカタリ)」には、さらにこんな艶なことも書いてある。
 彼女が大二条関白教道(ノリミチ)公の想い人であった時のこと。教道は仕事疲れから長いこと臥せっておられたが、やっと平癒して小式部のいる上東門院に出てこられた。教道公は「この間死にかかっておったのに、何も問うてくれんのか」と言いながら小式部の前を通り過ぎようとなさった。その時、引き止めて小式部が詠んだ歌。


死ぬばかり嘆きにこそは嘆きしか生きて問ふべき身にはあらねば   小式部

(意訳)
あなたの病気のことを知って、私は嘆きに嘆いておりました。忍ぶ仲なので、自分からお伺いすることもかなわず、本当に死ぬほどの思いで嘆いていたのですよ。(このアンポンタン)カッコ内はあくまで翔年の意訳。


いきて=「生きて」と「往く」をかけている。死ぬの縁語でもあるか。

 この歌に教道公は大きく心を動かされ、やがて別室でかき抱かれたとか。このような解説付きで小式部の歌を知ると、翔年はこの時代の知的女性がいきいきと、特に歌や恋愛ではなかなかの活躍をしていたように感じます。才媛は何時の時代でも、洋の東西を問わず、どんないじめにあおうとも、それを撥ね退けて、自分の意思をハッキリと伝えていて気持ちがいいです。(男はやり込められても、喜ばなければいけません)

昔の女性は虐げられていて、悲惨な境遇におかれていたという話はよく聞くけれども、それは違うのではないか。下層階級の農民などは悲惨さに於いて、男も女もかわりはない。そう見るほうがより正しいのではないでしょうか。

 閑話休題。
 この他にも小式部はこのような即妙の歌を折々詠んだことが「百人一首一夕話」には数例書いてあって、知れば知るほど小式部が好きになります。でも、こんな才媛も病には勝てず、母より先に没し、母和泉式部をふかく嘆かせた。いずれ和泉式部については書く機会を作りたいと思っています。
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