法律の解釈の正しさ

にんさん
にんさん
最近、法哲学チックなものを勉強しています。
いま読んでいるのは1954年の座談会なのですが、
ここでは法学における解釈の「正しさ」が
議論されています。これが意外と面白いんです。

簡単に具体例で考えてみると・・・

刑法199条
「人を殺した者は、死刑又は無期若しくは五年以上の懲役に処する。 」

とあります。

ここでいう「人」というのは何か、というのが解釈の問題です。
脳死している人や胎児は「人」なのか、ということですね。

学者の先生方は、このような解釈について、
「正しさ」はない、ということを言ったり、
学会における考えられうる反証をすべてクリアーしたものが
「正しい」解釈であると言ったりします。

「正しさ」はないという方は、その代わりとして、
「客観性」を確保すべきであるという議論をします。
この「客観性」とは、いかに多数の人に通用するか、
とのように理解して、これを「正しさ」の間接的な
担保にしているようです。

まぁ、当たり前といえば当たり前の議論かもしれませんが、
時代的に政治的な判決が多く出された時期で
裁判官の恣意的な解釈を少しでもさせないようにと
学者が懸念したという背景があります。

このひとたちの議論が現在の学会では見られないような
白熱っぷりで非常に面白いんです。

ご興味のある方はぜひご一読をば。

日本法哲学会編『法の解釈』(有斐閣、1954年)
タグ
#法律
6件のコメントがあります
1~6件 / 全6件
にんさん
>円満さん
「多数に通用する」ということを「客観性」と捉えれば
たしかに仰るような結果になりますね。

弁護士の場合、クライアントに合わせた解釈をするわけですから
時としてまったく客観性を伴わないような解釈もありますね。
よく最高裁なんかで「独自の見解であって採用できない」などと、
一蹴されています。そもそも弁護士の主張には常に客観性が
必要なのかは微妙な気がします。
(退会済み)
法の解釈って多角的ですよね。
弁護士ですら、人それぞれですから。
基本的には、過去の判例にあるかないかですが、最近はマスコミなどを利用して民意を動かすパワーがあれば、新たな「客観性」生み出すこともあるみたいですよね。
にんさん
>宗教(≒哲学)的なものの教育をおざなりにしてきた
>結果でしょうか。信じる信じないは別にして
>「宗教というもの」を今後教える必要があるかと思います。
同感です。
海外にいくと無宗教を理解してくれないこともしばしばです。
宗教がこれだけ浸透していない国も珍しいですよね。
知識としての宗教もない場合、とてつもない失礼をすることも
あるわけですし、今のままというのは本当にこわいですね。
アミノさん
>残念ながら日本の法学は外国での議論を参考にしないと
>進められない世界なのです・・・
宗教(≒哲学)的なものの教育をおざなりにしてきた結果でしょうか。信じる信じないは別にして「宗教というもの」を今後教える必要があるかと思います。
にんさん
>キリスト教国家で同じ議論をしたらどうなるんでしょう?
実は日本独自の議論ではなく、
ドイツ等の議論が参考にされています。

残念ながら日本の法学は外国での議論を参考にしないと
進められない世界なのです・・・

>あと、客観性って多数の主観を集めたものですよね。
>多数ってどこから多数になるんでしょうか?

先にあげた客観性自体、ものごとを相対的に見ている
わけですから、多数というのも相対的です。
より多くの賛同を集めた意見が客観性が一番担保
されているという、認識だと思います。

>また、各個人の意見はすべて等価なのでしょうか?

基本的には等価だと思います。ただ、対象とする
母体が学界という専門家集団を想定しているように
思います。つまり、一般人にどれだけ通用しているかを
問題としているわけではないということですね。

法学って権威的である点は否めませんから・・・
しかも戦後まもなくの帝国大学の教授だらけの議論となれば
その傾向たるや言わずもがな、ですね。

>むつかしいなぁ。
回答を出そうとするとそうですね。
頭の体操として捉えるとなかなかたのしいものです♪
アミノさん
>この「客観性」とは、いかに多数の人に通用するか、

日本人の宗教観『和をもって貴しとなす』に基づいているような気がします。良くいえば時代に対して柔軟、悪くいえば曖昧で扇動されやすい、という気がします。
キリスト教国家で同じ議論をしたらどうなるんでしょう?

あと、客観性って多数の主観を集めたものですよね。多数ってどこから多数になるんでしょうか?また、各個人の意見はすべて等価なのでしょうか?

むつかしいなぁ。
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