ユリウスさんのブログ

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小沢問題と八百長問題を考える -罪と責任-

 ハッキリした八百長相撲の証拠が出てきた相撲界のスキャンダルと、民主党の一兵卒小沢氏の政治資金規正法違反容疑などのように事実をハッキリすることができず、毎回責任がウヤムヤにされてしまう政界のスキャンダルについて考えてみたい。

 二つを例にとって、政界と相撲界の
1 金と保身 → 汚いやり方
2 法律と罪 → 罪と責任、法を犯さなければそれでいいのか? 
3 属する集団のレベル → 倫理観はどちらが持っている?
という観点に絞って考えてみたい。
 
 小沢氏の金について報道されている所を見ると、異常な金の流れが確かにある。法律的な解釈は別にしても、金が手元にあるのに融資を受けたり、返却したり、自分名義でない預金(家族等)の金の出入りがあったり、ミスか何か知らないが、政治資金収支報告書に記載しなかったり、年度をズラせて記載していたり、ありとあらゆる通常では考えられない資金の移動が積み重なっている。本人も分らなくなっているのだろうか、それについての説明が二転三転しているのは皆さんもご存知のとおり。
 翔年は小沢氏にこれらを事細かに説明してもらおうとは思わない。こういう異常な(と思える)金の流れを一体何のためにしたのか、それを考えたら、彼が汚いことをする意図があったことは隠しようがない。何のために汚い金を集めたか。政界での自分の地位を高め、権力により近づくためである。そして、権力の掌握がほぼ最終目的であったのだろう。(彼のやり方が法に触れるかどうかは今は問題にしない)

 一方、八百長の方はどうか。どうやら携帯のメモリーに残っていた動かしがたい証拠からみて、相撲界の八百長汚染は底なしの様相を見せ始めている。ここで動く金も保身のためである。

 程度の差こそあれ、汚い金と保身ということでは同じであろう。よく金は人を変えるといわれるが、本当は金は人の本性を暴くのだと思う。この世の中、かならずしも清いことが最優先するとは思わないけれど、金で仮面をはがされた当該人物はよく見きわめたいと思う。

Money does not change men, it only unmasks them.(金は、人を変えるわけではない。人の仮面をはがすだけだ) 
-Marie jeanne Riccoboni(マリー・ジャンヌ・リコボニ、フランスの小説家)


 次に法律と罪と責任について考える。小沢氏の場合、政治資金規正法を始めとする法律を犯したかどうかが、一番の問題になる。事実に即した法律の正しい適用は司直の手にゆだねるしか我々にはいかんともしがたい。金の流れから見て、小沢氏は汚いことをしようとしたことはほぼ間違いないが、法に照らして罪になるかどうか、翔年には判断できない。
 それに対して八百長は法律的な罪はない。勝ち星を金で売り買いしたという汚い行為ではあるが、これを法律で罰することはできない。なぜなら、この行為をなした者を罰する法律はないのだから。世間が怒っているのは、スポーツマンが正々堂々と戦うのは自明のこととしていることを犯したからである。

 ここにきて、この二つのスキャンダルは全然別の問題であることに気がつく。一つは「法を犯したから法によって罰せられる問題」、もう一つは犯した法律はないのだが、「倫理的な責任を問われ、仲間集団(相撲界)から罰せられる問題」である。

 結論を急ぎたい。
 二つのスキャンダルは似ているようで違う。翔年には現国会議員諸侯はどうやら小沢問題は法律に触れたかどうかを問題にしているように見える。未だに小沢問題はくすぶったままであるのがその証。政界は法律スレスレのことをしている集団だから、もし、法律にはふれないが、汚いことをしようとした者が罰せられることになったら、困る者が続出するからそうしているのだろう。本当に倫理観があるのなら、鳩山元総理の脱税だって、野中元自民党幹事長の1億円ポケット入れ事件だって、汚い行為であるには違いないのだ。法律違反に問われなかったからといって、当人達がしゃあしゃとしておれるもんだいではないはずなのだ。
 翔年は法律さえ犯さなければ何をしてもいいと考えるような汚い男を政界のリーダーにしたくはない。世間もそこのところを怒っている。

 一方相撲界は法律問題(法律的に罪を犯していない)ではないが、スポーツマンとしての倫理の問題として対処している。今のところ問題をウヤムヤにしない姿勢が見える。こっちの方が政界よりマシ、レベルが上。倫理観があり、倫理上の責任をとろうとしている。翔年はこのことを評価する。
 ただし、今まで相撲界のリーダー達が、八百長の噂が出るたびに、必死になって覆い隠しつづけ、この問題にメスを入れなかったことには猛省を促したい。もっというなら、親方衆の眼は節穴かと問いたい。弟子達が筋書き通りの八百長相撲を土俵上で演じているのに、親方がそれを見てなんの指導もしていなかったとしたら何をかいわん。無気力相撲としてしかりつける親方がいなかったとしたら、これほど情けないことはない。(翔年は親方は黙認していたと思っている)
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