ユリウスさんのブログ
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『呉清源 極みの棋譜』-稀代の天才棋士
映画『呉清源 極みの棋譜』を観た。内容も映画作りの姿勢にも感動した。
なんと清澄な映画であったことか。最近の映画の常套手段となっている画面のトリックや大音響による驚かしなどの子供だましは皆無。うれしいことに、TVドラマなどでよくある、役者が無理に顔で演ずる演技過剰もなく、古きよき日本の自然を美しく映像化することによって、天才の内面のプピュアさを表徴する一方、歴史的事件(全て事実)を単純に映像化するだけで、余計な演出や冗長な説明は省いて、これが外界から天才に押し寄せる現実であると映画は提示するのみ。この単純さが何よりもよかった。
それゆえ、呉清源の生い立ちから、わが国囲碁界での活躍ぶりとその間(昭和3年から現在まで)の主な出来事を知識としてあらかじめ知っていないと、理解できない映画だとは思う。しかし、このことがこの映画が商業主義に毒されていない何よりの証拠。
この映画を作られた中国人の田監督と関係者に敬意を表します。
関連コメント
川端康成:「これほど天才という印象の明らかな人はなかった」と小説『名人で』書いている。
→ この印象は誰もが抱く。勝負師にありがちなギラギラしたものがなく、あくまで清澄な心の求道者なのです。
中山典之六段:「映画で一つだけ欠点をあげるなら石を打つ時の手つき。プロはもっと美しく打つ」→ 同感です。
Yアマ六段氏:「あの呉清源がインチキ宗教の卍教に引っかかるなんて信じられなかった。ぼくの呉清源のイメージが破れた。」
→ 翔年は呉清源の随筆を読んでいるので、天才の孤独がそれほど深かったんだと理解しています。呉清源にとって「真理」と「囲碁」以外のことに関心がなかったのですから・・・。
あるアマ高段者:画面がぱっ、ぱっと脈絡もなく切り替わるのでついていけなかった。
→ 歴史的事実を知っていない人にとっては、あるいはそうかもしれません。この映画は過去の事実の予備知識は要求します。
映画に限らず、文学でも、音楽でも、絵画でも、何であれ、良きものは全て読者や鑑賞者にあるレベル以上を要求しないものはないのではないでしょうか?
なんと清澄な映画であったことか。最近の映画の常套手段となっている画面のトリックや大音響による驚かしなどの子供だましは皆無。うれしいことに、TVドラマなどでよくある、役者が無理に顔で演ずる演技過剰もなく、古きよき日本の自然を美しく映像化することによって、天才の内面のプピュアさを表徴する一方、歴史的事件(全て事実)を単純に映像化するだけで、余計な演出や冗長な説明は省いて、これが外界から天才に押し寄せる現実であると映画は提示するのみ。この単純さが何よりもよかった。
それゆえ、呉清源の生い立ちから、わが国囲碁界での活躍ぶりとその間(昭和3年から現在まで)の主な出来事を知識としてあらかじめ知っていないと、理解できない映画だとは思う。しかし、このことがこの映画が商業主義に毒されていない何よりの証拠。
この映画を作られた中国人の田監督と関係者に敬意を表します。
関連コメント
川端康成:「これほど天才という印象の明らかな人はなかった」と小説『名人で』書いている。
→ この印象は誰もが抱く。勝負師にありがちなギラギラしたものがなく、あくまで清澄な心の求道者なのです。
中山典之六段:「映画で一つだけ欠点をあげるなら石を打つ時の手つき。プロはもっと美しく打つ」→ 同感です。
Yアマ六段氏:「あの呉清源がインチキ宗教の卍教に引っかかるなんて信じられなかった。ぼくの呉清源のイメージが破れた。」
→ 翔年は呉清源の随筆を読んでいるので、天才の孤独がそれほど深かったんだと理解しています。呉清源にとって「真理」と「囲碁」以外のことに関心がなかったのですから・・・。
あるアマ高段者:画面がぱっ、ぱっと脈絡もなく切り替わるのでついていけなかった。
→ 歴史的事実を知っていない人にとっては、あるいはそうかもしれません。この映画は過去の事実の予備知識は要求します。
映画に限らず、文学でも、音楽でも、絵画でも、何であれ、良きものは全て読者や鑑賞者にあるレベル以上を要求しないものはないのではないでしょうか?
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