呑気呆亭さんのブログ

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藤原宮跡から明日香を歩いてきました

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<<藤原宮跡>> <<耳成山>> <<亀石>>

平城宮跡を離れて、もっと古い都の跡を歩いてみました。
大学時代の友人と20年振り位で再会しました。
彼の地元なので、散策コースは彼におまかせ。

一番左の写真は、藤原宮跡です。平城京に遷都する前の藤原京の中心地です。

大和三山の一つ「耳成山」は、藤原宮の真北に位置します。綺麗な形をした独立峰です。大和三山の中では一番低い丘です。

明日香(飛鳥)まで足を延ばして、亀石を見てきました。
今日歩いた歩数は、2万歩を越えました。
4件のコメントがあります
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    daikonさん
    2010/5/5 20:19
    こんばんは

    5月にしては暑い中、20000以上歩かれたのでしたら、少しお疲れなのでは。

    この当時の都は短期間であちこちに移ったらしいですが、政情不安だったのでしょうか。
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    呑気呆亭さん
    2010/5/5 20:44
    ダイコンさん こんにちは、

    今日の遅めの昼食は、友人のお薦めのお店で、自家製の柿の葉寿司とかわらび餅 たっぷりの山菜を地元の名産三輪そうめんと共にいただきました。
    おなかがいっぱいだったのに加えて、心地よい疲れが出て、帰りの電車の中でうとうとしてしまいました。

    日本での本格的な都は、平城京というよりは、その前の藤原京だと思います。
    710年(和銅3)に平城京に遷都されるまで持統・文武・元明の三天皇が居住した16年間の都です。
    <<引用>>
    藤原京は当初、大和三山の内側にあると想像されていた。東西1.1km、南北3.2キロとみられていたが、1990年代の東西の京極大路の発見で「大藤原京」が想定された。規模は、5.3キロ(10里)四方で少なくとも25平方キロあり、平安京(23平方キロ)や平城京(24平方キロ)をしのぎ、古代最大の都であった。大和三山(北に耳成山、西に畝傍山、東に天香具山)を内に含む規模である。これを「大藤原京」と呼んでいる。

    都の中心やや北寄りに内裏・官衙のある藤原宮を配置し、藤原宮から北・南方向にメインストリートである朱雀大路があった。ただし、この朱雀大路は後の平城京や平安京のような幅70メートル以上の大きなものではなく幅 24メートル強(側溝中心間)の後の朱雀大路と比べて非常に狭い幅のものであった。 京極を除いて縦横九本ずつの大路が通っていた。

    京域内には、朱雀大路を境にして東側が左京、西側が右京で、それぞれ南北・東西に十坊の条坊制地割りが設定されている。左右京とも四坊ごとに一人の坊令(ぼうれい)を置き合わせて12人の坊令を置いたことが、大宝戸令(こりょう)と大宝官員令(かんいんりょう)にみえる。宮の北方に市が存在したことが明らかになっている。 問題点の一つは、南東が高く北西が低い地形は、汚物を含む東南部からの排水が宮の周辺を流れることであり、また、都を囲む城壁や正門が存在しなかった。
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    yoc1234さん
    2010/5/5 20:54
    こんばんは。
    藤原京の説明はありがたいですね。
    もともと要塞として機能するには大きすぎたようですね。
    また立地もよくなく、直ぐ攻め込まれたようです。
    それで、移動したような感じですね。
    2万歩歩けば明日は筋肉痛になりそうですね。
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    呑気呆亭さん
    2010/5/5 21:18
    yoc1234さん こんばんは、

    いつもコメントありがとうございます。

    当時の日本は、律令国家を確立する時期だったようです。
    先進国である唐の制度や都市計画を積極的に取り入れた、進取の時代でしょう。

    現在のように、古株の日本経済が、新興の中国経済に追いつき追い越される時期ではなく、
    圧倒的な大帝国「唐」の仕組みを、新興の日本が取り入れる時期だったということです。
    このプロセスで、渡来人や帰化人が活躍したことは言うまでもありません。

    もっとも、奈良時代の阿倍仲麻呂氏のように、唐の役人として出世した日本人もいた訳ですが、文化的に輸入超過の時代が永く続いていました。

    筋肉痛は出ないことを願っています。  (^^♪
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