堅実さんのブログ
相沢忠洋と岩宿遺跡(6.12.7)10時50分
相沢忠洋さんですが、昭和44年の正月、伊勢崎市の赤堀で、相沢忠洋さん宅を訪ねました。バスで降りて、北方、2キロメートルの所に、彼は住んでおりました。家の入口には猿が激しく、小生を威嚇しました。家の中から相沢さんが、出てきて、猿をしかりつけました。
家の中は、土器のかけらや、石器が、所狭しと、置いてありました。
相沢さんは、その時「後、7年足りない」と、言ってました。「後7年、時間が有れば、何とかなるんだ」と、言ってました。研究の世界とは、時間との戦いだと、気が付きました。
その頃の小生は、これから、この先、どう生きたらよいかと、考えている時でした。
1時間くらい話して、そこへ、40歳くらいの男(この人も、考古学関係の人でしたが)が来て、その男の運転で、伊勢崎駅まで、3人で行き、そこから、両毛線で、家まで帰った記憶です。
人生、どんな人と出会えるかで、その人の人生が、決まります。特に、若い時がそうです。出会えないなら、本を通して、出会うことが、出来ます。松下幸之助、ソニーの井深大、本田の本田宗一郎です。本田宗一郎は、本を書かないので、これは井深大から、知りました。
その他、20歳頃から、今までの本は、人生論や、その時の人の自伝などが多かったです。これも、多くの参考になりました。
これ等を一言で言えば、「人生、努力です。」そして、これはわたしの、ブログに、度々書きました。それと、決して、泣き言を書かなかったのも、私のブログの特徴です。書けば、本当に、そうなるからだと、知っているからです。
森田療法でも、同じ事を、言っております。
(ネットより)
第2次世界大戦の頃までの考古学者は、発掘を進めて赤土(関東ローム層)が出るとそれを「地山」と呼び、それ以上掘ることはありませんでした。土器を使っていた縄文時代(世界史では新石器時代にあたる)の人々が日本の最初の住人だと考えていたからです。
この考古学・日本史の常識を覆し、日本にも世界史でいう旧石器時代段階に人々が生活していたことをはじめて明らかにしたのが、岩宿遺跡です。
1946年、切り通しの道となっていた岩宿遺跡を通りかかった相沢忠洋は、切り通しで露出していた赤土(関東ローム層)から、石器を発見しました。
相沢はその後も、何度となくその崖を調査し、赤土の中から次々に石器を見つけましたが、土器が伴うことはありませんでした。当時は、1.5万年以上前の火山灰でできた関東ローム層の時代には、ヒトが住めなかったといわれていましたが、自分が確かめた事実を信じ、1949年の夏、ついに誰が見ても疑いようのない黒耀石の石槍を発見しました。
この発見は、いち早く東京の学者に知らされ、相沢さんと明治大学が岩宿遺跡を発掘調査をすることになりました。
学習史跡】岩宿遺跡 群馬県【旧石器時代】
https://www.youtube.com/watch?v=xQgEHlUKT70
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万物流転’さん2024/12/7 16:16こんにちわ 堅実さん現パナソニック の 松下 幸之助 氏 和歌山県 出身ソニー の 井深 大 氏 栃木県 出身、ホンダ の 本田宗一郎 氏 浜松市 出身戦後 , 世界へ 羽ばたいた 日本企業 の 創業者 ですね。もう お気付きでしょうが いずれも 皆さん ,明治維新 負け組 地域 の 出身者です。又 , 相沢 忠洋 氏(東京 羽田 生まれ)も そうですが、井深さん を 除き 皆さん 最終学歴 は 小学校卒 です。反骨心 と その ひたすらな 研究心 に 頭 が 下がります。明治期 以降 政府の 庇護 を 受けた 官 の 企業 の 系譜 ではなく、庶民 に 寄り添って来た 経営思想 の 企業 と 云えます。私は, 薩長 大嫌い なので 余計に そう感じる のかも 知れません。ホンダ の 本田宗一郎 氏 も そうですが, 宅急便 生みの 親 のヤマト運輸 創業者 の 小倉 昌男 氏(東京 代々木 生まれ)も,再三再四、旧運輸省 や 旧郵政省 から 嫌がらせ を 受けました。企業 の トップ として、理不尽な 要求 に 毅然 と 立ち向かう御二人の 様子 は、 ニュース や 親父から 聞いて 高校生 ながらも知っていました。当時, 官僚 が 大反対した ホンダ の 軽4輪事業 認可 とヤマト の 宅急便事業 認可 は, 今や 庶民の 生活 に欠かせない モノ と なっています。
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堅実さん2024/12/7 16:40万物流転 さんへもう、みん株も、終わりなので、何か、役立つものをと、考えて書きました。「現パナソニック の 松下 幸之助 氏 和歌山県 出身ソニー の 井深 大 氏 栃木県 出身、ホンダ の 本田宗一郎 氏 浜松市 出身戦後 , 世界へ 羽ばたいた 日本企業 の 創業者 ですね。もう お気付きでしょうが いずれも 皆さん ,明治維新 負け組 地域 の 出身者です。」これは、気が付きませんでした。「又 , 相沢 忠洋 氏(東京 羽田 生まれ)も そうですが、井深さん を 除き 皆さん 最終学歴 は 小学校卒 です。」そうなんです。人は、死にものぐるいで、頑張れば、道は開けると思います。「反骨心 と その ひたすらな 研究心 に 頭 が 下がります。明治期 以降 政府の 庇護 を 受けた 官 の 企業 の 系譜 ではなく、庶民 に 寄り添って来た 経営思想 の 企業 と 云えます。私は, 薩長 大嫌い なので 余計に そう感じる のかも 知れません。」反骨心というと、群馬県人もそうです。東京に、近いかどうかは、別として、上州人(群馬県人)は、昔から、そんな気風があったと、思います。あの、福沢諭吉も、政府とは、距離をおいて、大隈重信とは、別の道を選びました。これも、後々、慶応の先生から、聞きました。「ホンダ の 本田宗一郎 氏 も そうですが, 宅急便 生みの 親 のヤマト運輸 創業者 の 小倉 昌男 氏(東京 代々木 生まれ)も,再三再四、旧運輸省 や 旧郵政省 から 嫌がらせ を 受けました。」小倉さんは、この私に、勲章が出るものかと、言ったのを、思い出します。郵政省とは、別の方法を、民間で採ったのです。当然、郵政省からは、目の敵にされました。「企業 の トップ として、理不尽な 要求 に 毅然 と 立ち向かう御二人の 様子 は、 ニュース や 親父から 聞いて 高校生 ながらも知っていました。」本田技研で、2輪車から4輪車(N360)に、参入する時ですね。この時、わたしは、世間知らずで、果たして、本田に4輪車でうまく行くのかと、思ったものです。小倉さんも、大変だったと、思います。おそらく、なにかにつけて、郵政省が、反対したからです。「当時, 官僚 が 大反対した ホンダ の 軽4輪事業 認可 とヤマト の 宅急便事業 認可 は, 今や 庶民の 生活 に欠かせない モノ と なっています。 」その後、郵便事業は、大赤字です。本田は、トヨタに次ぐ、大企業となりました。ここで、日産ですが、昔は、トヨタよりは、優位だったのが、今や、倒産の危機です。経営が、これほど、業績に影響します。日産の、気風が、間違っていたのです。殿様商売だったのかと、思います。日産の経営者は、退陣すべき事態です。まだ、気が付かないのかなと、思いますが。
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万物流転’さん2024/12/7 18:15日産の、気風が、間違っていたのです。殿様商売だったのかと、思います⇓日産 の 企業風土 ですが ,創業者 は, 鮎川 義介 氏( 旧長州藩 藩士 )です。戦前 日産コンツェルン を 創設。 貴族院議員、帝国石油 も 創業満州国 に 半官半民 の 満洲重工業 を 創立。戦前の 軍・財・官界 に 広範な人脈 を築いた。満洲国 経営に 辣腕 を 振った 岸 信介 氏 や 元 長州出身の同郷人 松岡洋右 氏 と 共に「満洲 三角(三すけ)同盟」と謳われたそうです。元来 , そう云う 気質 と 企業風土 な 上,戦後 は , 左翼 労動組合 に 会社 を 牛耳られました。戦争 で 散々 苦労した 親父 からは,車 買うなら, 日産 は やめとけ! と当時 , その理由 を 教えられましたね。
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堅実さん2024/12/7 20:10万物流転 さんへありがとう、ございます。日産の言葉について、分かりました。そうすると、これは、会社の社風ではなく、ここ、最近の取締役の経営方針が、間違っていたのですね。ここ50年の間、最初は、トヨタに、抜かれ次には、中小企業のホンダにも抜かれてしまった。そして、今では、倒産の危機ですね。話は、変わりますが、会社の経営方針で、今では、競争で、どんな大きな会社でも、買収されるという、時代に、なりました。イトーヨカドーが、最初は、セブンイレブンを吸収して、経営が立ち直るかに、見えましたが、買収の話です。経営者は、会社の上場廃止を、計画してますが、経営がうまくいかないのに、上場廃止しても、うまくいくかどうか、疑問です。また、これは、世界には、巨大なマネーが、存在していることになります。50年前には、考えられない、マネーの量です。自由経済というのは、こういう事かと、思います。