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紙芝居を見る(6.10.11)11時31分

  小さい頃、自転車で、紙芝居家が、村の中に来た。水あめ(ねじり飴と、言っていた)を子供に売り、紙芝居を見せるのである。水あめは5円で、10円出すと、2倍の大きさだった。水あめは、赤と青色で、色が付いていた。その水あめを、割りばしの2本で、ねじっていくので、ねじり飴と呼んでいた。


 紙芝居は、連続ものが多く、「怪人20面相」などの、物語であった。子供は、夢中で、その紙芝居を見たものだ。中には、水あめが、買えない子供もいたが、それでも、紙芝居屋さんは、見せてくれた。


 子供の話では、水あめを買わないと、紙芝居を見せないと、聞いていたが、買えない子供は、遠くから、と言っても3メートルくらい離れた所から、見ていた。


 それは、子供心に、世の中の理不尽さを、感じた。この頃から、世の中は平等ではないというのを感じていた。

そして、子供どうしでも、差別をしたり、喧嘩をしたりする、小さな社会を作っていた。


この頃は自動車が、全くないので、道路の端で、のんびりと見ることができた。


 その紙芝居も、何時の間にか、消えてしまった。テレビが出てきたためか。しかし、その前から、無くなったと思う。戦後から、世界が、安定する前の期間だった。

大人の働くところ(会社、小売店など)が無いので、こんな、子供相手の僅かな収入で生活している人がいたのだ。

 

6件のコメントがあります
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    株道楽さん
    2024/10/11 15:31
    こんにちは

    昭和30年代前半は大都市(東京下町)にも紙芝居はありました。
    子供相手にリアカーでおでんを売りに来るお婆さんもいました。
    客単価5円か10円の商売でした。
    当時はラーメンが1杯30円から40円の時代でした。
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    堅実さん
    2024/10/11 16:00
    株道楽  さんへ

    「昭和30年代前半は大都市(東京下町)にも紙芝居はありました。
    子供相手にリアカーでおでんを売りに来るお婆さんもいました。
    客単価5円か10円の商売でした。
    当時はラーメンが1杯30円から40円の時代でした。」

    そうだったですね。
    前橋でも、ラーメンが1杯30円の時代でした。
    それが高級品でした。
    そのラーメンも、当時は食べたことがなく、映画でラーメンを食べているのを見ると、うらやましいと、思ったもんでした。

    東京でも、紙芝居は、あったんですか。

    私の、生まれた村は、白菜の産地で、当時、農協のトラックで、
    白菜の「東京出し」というのが、ありました。
    前日の午後、神社の横に、農協のトラックが来て、白菜を、積み込むのです。
    トラックは夜行で、東京の青果市場に出します。
    当時は、信号機が少なく、夜間なので、2時間で東京に辿りつきました。
    結構、重労働だったですね。
    しかし今は、トラックの夜間運送は、普通になってしまいました。
    トラックの運転手は、重労働ですね。
    昔の、思い出です。



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    ひでたろう12さん
    2024/10/11 17:18
    昔にはあって、今なくなってるもの多いですね。
    それだけ歳をとったのでしょう。
     
     紙芝居はあまりイメージないけど、野外の映画はお祭りがあればやっていました。

     神社の祭礼も毎年あって、お小遣い50円もらって金魚すくいや射的をしたりしました。綿菓子やかき氷も美味しかったです。
    ひよこの雄もかわいいから買ってくるのですが、すぐに死んでしまいました。
     
     やくざの親分みたいな子供について、よくチャンバラをしたものです。

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    堅実さん
    2024/10/11 22:24
    ひでたろう12  さんへ


    今、風呂あがりで、さっぱりしております。


    「紙芝居はあまりイメージないけど、野外の映画はお祭りがあればやっていました。」

    野外の映画ですが、小学生の頃、青年団が、よく、映画会をしました。
    それが、小学校で見た次の日に、前橋の映画館で、同じ映画が、
    上映され、群馬では一番早くみたものです。
    「透明人間と蝿男」「こばんざめ」は。記憶があります。
    村の、青年団も、けっこう、やるもんですね。

    「神社の祭礼も毎年あって、お小遣い50円もらって金魚すくいや射的をしたりしました。綿菓子やかき氷も美味しかったです。
    ひよこの雄もかわいいから買ってくるのですが、すぐに死んでしまいました。」

    金魚すくいは、今でも、前橋の町内会で、やっております。
    その他、輪投げ、子供みこし、風船釣りが、ありました。
    風船釣りは、糸がしっかりしたもので、誰でも、簡単に、釣れました。

    ひよこですが、これはお祭りではなく、前橋の一角でやはり、5円で売ってました。
    ヤッパリ、飼い方が、悪いのですね。
    直ぐに、死んでしまいました。
    この、鶏は、全部、雄です。
    廃棄処分するのを、売っていたのです。
    これは、大きくなってから、知りました。

     
     やくざの親分みたいな子供について、よくチャンバラをしたものです。

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    りす栗さん
    2024/10/12 08:43
    おはようございます。

    紙芝居は、記憶の中では、現実と後日の話を混同するあたりで、自転車(実用車)の荷台の見せる仕組みのイメージは残っています。テレビドラマのワンシーンだったのかもしれない。
    記憶が明確になる小学校のころに対して、その前、昭和30年代前半となると夢のような幻のような具合ですね~。
    なんだかのんびりとしたアナログな時代なイメージですね。


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    堅実さん
    2024/10/12 09:52
    りす栗  さんへ

    「紙芝居は、記憶の中では、現実と後日の話を混同するあたりで、自転車(実用車)の荷台の見せる仕組みのイメージは残っています。テレビドラマのワンシーンだったのかもしれない。
    記憶が明確になる小学校のころに対して、その前、昭和30年代前半となると夢のような幻のような具合ですね~。
    なんだかのんびりとしたアナログな時代なイメージですね。」

    おはよう、ございます。
    その頃は、戦後で、防空壕がどこの家にも、残って、おりました。
    ノーベル賞に、日本被弾教会が受賞で、思い出しました。

    まあ、子供の、来ている服は、ぼろぼろで、つぎはぎだらけ。
    村では、皆、農家だったので、食べる物には、困りませんでしたが、
    ヒキワリご飯で、麦が半分、米が半分のご飯でした。
    おかずは、漬物、醤油汁、目指し、秋刀魚、などでした。
    それと、昆布の佃煮、南極のオキアミの佃煮くらいでした。
    夜は、うどんが定番でした。

    照明は、裸電球で、予告も無く、よく、停電しました。
    1週間に、一度は停電でした。

    そんな時には、石油ランプで、灯りをともしました。
    ラジオドラマ「赤胴鈴之助」が、人気でした。
    テレビが、無かったので、子供は夜7時に寝ました。
    大人でも、8時には、寝ました。

    車は、自動車ですが、全くありませんでした。
    前橋では、信号機がなく、おまわりさんが、交差点の中央の、
    台の上に立ち、交通整理をしていました。
    舗装道路は、国道17号線だけでした。
    冬は、砂が舞い上がるので、散水車が、道路に、水を、
    巻きました。これも、気休め程度で、直ぐに、乾いてしまいました。
    そんな、時代の紙芝居だったのです。




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