4歳頃か、歩いて、お婆さんの生家にいった。この後、何度か行ったが、この時は秋だった。片道6キロくらいで、途中で、足がくたびれて、止まってしまった。お婆さんが「早く、えべ(歩け)。」と言って、何とか、歩いた。
家まで着くと、何とも言えない、感じになった。これは疲労なのだが、この時が、初めての、疲労感だった。4歳にしては、大旅行だった。当時は、車が無いので、皆、歩いたものだ。健脚だった。
「もう、梨も、あるかな。」と言って、梨を出してくれた。この梨は、その家に植えてある梨の木から、採ったものだ。それと、家の裏に井戸があり、その後ろが、なにやら垣根だった、そこに、「山ぶどう」のつるが有り、秋だったので、出してくれた。青の黒っぽい小さな粒だった。数粒だった。これが、「山ぶどう」を、初めて食べた経験だった。そして、その後、山ぶどうは食べてない。
その後、3度くらい、その家に行った。その家には、わたしより、4,5歳年上の女の子が、2人いて、バッタが好きなので、一緒に、バッタ取りにいってくれた。「しょうりょうバッタ」は、大きかったが、それを、捕まえると、うれしかった。その女の人は、今どうしているだろうか。
大体、その家には、一泊か、2泊して帰った。帰る時は、途中で、お婆さんが、煎餅を買ってくれた。この頃は、煎餅が1枚、2枚というように、ばら売りだった。お婆さんが一枚、わたしが、一枚食べた。少し、湿っていた煎餅だが、煎餅とは、こんなもんかと思った。中に空洞がり、それがまたよかった。あの味が忘れられない。今は、煎餅は、乾いていて、ぱりぱりしているが、その時には物資も無い時で、しけた煎餅しか、知らなかった。
その家には、わたしより、2歳くらい小さい男の子もいた。その男の子と、上越線の電車を見に行った。当時は蒸気機関車だった。煙をはいて、貨物車を引っぱっていた。その男の子もどうしているか。それ以来、音信、不通である。
その後、数十年経過して、車で、その家の脇を、通った。梨の木は、相変わらずあった。その脇は、樫ぐねの覆いであった。近くの神社にもよったが、其れで、終わった。その家に、寄るのは、もう、知っている人もいないし、気が引けたのである。