堅実さんのブログ

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お爺さんとタバコ(6.4.28)9時46分

  戦後、間もない頃です。お爺さんは、縁側でよくタバコを、吹かしてました。当時は、紙巻タバコは有ったのですが、結構、キセルが、多かったです。


 キセルに指でタバコを詰め、最初はマッチで、火をつけて吸います。直ぐに終わり、その次です。未だ、火のついた赤いタバコを手の上に乗せ、転がします。熱いのでしょう。次に、新しいタバコをキセルに詰めて、その火の付いたタバコの玉で、火を付けます。大体、タバコは、2つで終わりです。


 キセルは直ぐに、タバコの「やに」で、詰まるので、分解して、竹の棒で掃除をしてました。その脇で、わたしは、見てました。


 当時は、タバコは肺がんになるという事は、問題にも話題にもなりませんでした。話題になったのは、食料難の話です。


 その当時は、わたしは、着物を着ていました。足は足袋です。魚は、イカが沢山とれ、秋刀魚は、半分腐ったような状態で、炭火で焼くと、はらわたの部分が、落ちてしまう。味は、いからい味でした。


 よく家に、物貰いが来ました。何か食べ物を分けてくれと、言うのです。お婆さんが、米と麦の半々の、握り飯を、差し上げると、喜んで、帰っていきました。どこの行ったのかわかりません。どこに住んでいるのかも、分かりません。


 お爺さんは、春になると、茄子の苗を栽培しました。今では園芸店で売ってますが、当時は、全て自家栽培です。3坪ほどの、苗床を作り、未だ寒い3月に、周りは稲藁で囲いをして、上は、むしろをかけて、水をくれるのです。大体、50本くらい育ちます。


 それを、近所の人に5本くらい分けます。無料でした。こんな風の人だったので、お爺さんを悪くいう人は、おりませんでした。


 家の裏は大きな竹藪で(150メートル×200メートル)、竹には困りませんでした。お爺さんはその竹で、竹鉄砲を作ってくれました。竹の側面に穴を開け、小さな竹のばねを作り、中に石ころを転がし、ばねで飛ばすのです。

 あまり、飛びませんでしたが、珍しかったので、うれしかったです。


また、ろくろを回している家に行き(ろくろ工場)、木のコマの出来損ないを見つけて、それを、もらいました。木は、ろくろで削るときに、コマに、ひびが入るのがあります。まあそれでも、コマとしては遊べます。


 冬は、お爺さんは、土間で、俵を作りました。稲藁は沢山あったので、簡単な機械で、俵を編むのです。その他、土間は作業場として使われ、白菜、ホウレンソウ、大根などを青果市場に出す、準備をしてました。

とにかく、1年中、働いて、働いた人でした。



 

4件のコメントがあります
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    おはようございます、堅実さん。

    働き者のお爺さんでしたね。

    私のお爺さんも、たばこをよく吸っていました。
    ピースだったと思います。

    我が家もお爺さんの時代は農家だったみたいですが
    私が記憶してるころは、これからは農家の時代ではないと
    お爺さんに言われて(都内なので)
    父が結婚する前に書店を開いたそうです。
    父が話していたのは
    定価があるのでなとか仕事に出来ると
    思ったと。
    私が結婚するころまでは繁盛していました。

    父は姉妹は女性ばかりでったので
    お爺さんとお婆さんと3人で農業を忙しくしてたのだと
    おもいます。
    私が記憶に残っているお爺さんは
    縁側でのんびりタバコを吸っている姿です。
  • イメージ
    コ鉄さん
    2024/4/28 10:46
     こんにちは。堅実さん。
     母方の祖父とは血は繋がっていないんですがね、可愛がられた
    記憶があります。祖父が名付け親だった様な。
     男子ですから喜ばれたのでしょうね。戦争で息子を亡くしてますからね。

     故あって仏壇がわが家へ。白木の位牌もあります。
     仏さんが沢山の仏壇となりましたが賑やかでなによりかと。
     福岡にお墓がありましてたまに墓参りにいってます。

     縁というのもでしょうかね。大事にするようになりました。
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    堅実さん
    2024/4/28 12:35
    アイビーあずさ  さんへ

    「私のお爺さんも、たばこをよく吸っていました。
    ピースだったと思います。」

    そうですか。この頃は、肺がんの話は無かったですね。

    「我が家もお爺さんの時代は農家だったみたいですが
    私が記憶してるころは、これからは農家の時代ではないと
    お爺さんに言われて(都内なので)
    父が結婚する前に書店を開いたそうです。
    父が話していたのは
    定価があるのでなとか仕事に出来ると
    思ったと。私が結婚するころまでは繁盛していました。」

    そうですね。昭和30年頃から、日本の工業化は進みました。元々、人的資源
    (人の能力)は、有ったので、工業化のスピードは、速かったです。
    昭和、27年頃から、服装は洋服に変わりました。
    この頃の書店は、時代背景として、丁度、合っていたので、繁盛していたと
    思います。

    「父は姉妹は女性ばかりでったので
    お爺さんとお婆さんと3人で農業を忙しくしてたのだと
    おもいます。」

    農業も、草取りで、地面にはいつくばって、草を取ったものです。
    小学生だった、私も、草取りをしました。
    泥が、顔に飛び散り、汗が出て、結構、辛かったです。
    農家は、皆、重労働でした。
    それが、中学生になると、除草剤が出てきて、畑の草取りは、大部、楽
    になりました。
    それでも、稲刈りは、稲刈り鎌で、手で稲を刈る作業で、これは前かがみになるので、腰が痛くなりました。

    「私が記憶に残っているお爺さんは
    縁側でのんびりタバコを吸っている姿です。」

    これは、どこの農家でもそうですね。
    隣の人が来ると、「まあ、お茶でも飲んで」と、お茶を入れました。
    これが、農家の、社交だったです。



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    堅実さん
    2024/4/28 17:23
    コ鉄  さんへ

    先程、大人用の3輪車で、近くのスーパーに買い物に行きました。
    大部、背骨の骨折が、回復しております。

    「母方の祖父とは血は繋がっていないんですがね、可愛がられた
    記憶があります。祖父が名付け親だった様な。
    男子ですから喜ばれたのでしょうね。戦争で息子を亡くしてますからね。」

    そうですね。この頃は、だれだれの誰かが、戦死したということが、
    村中に伝わりました。それに復員軍人は、兵隊の帽子をかぶり、兵隊服で、
    農作業をする人が、多かったです。そんな時代でした。


     「故あって仏壇がわが家へ。白木の位牌もあります。
     仏さんが沢山の仏壇となりましたが賑やかでなによりかと。
     福岡にお墓がありましてたまに墓参りにいってます。」

    墓参りですが、気分転換にもなります。日本人は、未だ、先祖を大切にしております。
    お盆が、そうですね。


    「 縁というのもでしょうかね。大事にするようになりました。」

    人は、どのような人と、出会うかで、その後の、影響が大きい
    です。私が、株式を始めたのも、会社で、株をやっている人がいたから
    です。株式をやらなければ」、別の人生が、あったでしょう。
    もし、出会えないなら、間接的ですが、偉人と言われている人の伝記
    を読むとか、本を読むとかで、人生が、開けます。
    あるいは、ことわざの本を見るのも、人生の参考になります。
    100円ショップで売っております。

    私は、教科書にあるような、人生を歩んでまいりました。
    その分、これといった遊びはなかったです。
    いろいろ、考えますと、人のやれることは、ほんの一部しかやれないので
    これでも、よいと、思っております。


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