戦後、間もない頃です。お爺さんは、縁側でよくタバコを、吹かしてました。当時は、紙巻タバコは有ったのですが、結構、キセルが、多かったです。
キセルに指でタバコを詰め、最初はマッチで、火をつけて吸います。直ぐに終わり、その次です。未だ、火のついた赤いタバコを手の上に乗せ、転がします。熱いのでしょう。次に、新しいタバコをキセルに詰めて、その火の付いたタバコの玉で、火を付けます。大体、タバコは、2つで終わりです。
キセルは直ぐに、タバコの「やに」で、詰まるので、分解して、竹の棒で掃除をしてました。その脇で、わたしは、見てました。
当時は、タバコは肺がんになるという事は、問題にも話題にもなりませんでした。話題になったのは、食料難の話です。
その当時は、わたしは、着物を着ていました。足は足袋です。魚は、イカが沢山とれ、秋刀魚は、半分腐ったような状態で、炭火で焼くと、はらわたの部分が、落ちてしまう。味は、いからい味でした。
よく家に、物貰いが来ました。何か食べ物を分けてくれと、言うのです。お婆さんが、米と麦の半々の、握り飯を、差し上げると、喜んで、帰っていきました。どこの行ったのかわかりません。どこに住んでいるのかも、分かりません。
お爺さんは、春になると、茄子の苗を栽培しました。今では園芸店で売ってますが、当時は、全て自家栽培です。3坪ほどの、苗床を作り、未だ寒い3月に、周りは稲藁で囲いをして、上は、むしろをかけて、水をくれるのです。大体、50本くらい育ちます。
それを、近所の人に5本くらい分けます。無料でした。こんな風の人だったので、お爺さんを悪くいう人は、おりませんでした。
家の裏は大きな竹藪で(150メートル×200メートル)、竹には困りませんでした。お爺さんはその竹で、竹鉄砲を作ってくれました。竹の側面に穴を開け、小さな竹のばねを作り、中に石ころを転がし、ばねで飛ばすのです。
あまり、飛びませんでしたが、珍しかったので、うれしかったです。
また、ろくろを回している家に行き(ろくろ工場)、木のコマの出来損ないを見つけて、それを、もらいました。木は、ろくろで削るときに、コマに、ひびが入るのがあります。まあそれでも、コマとしては遊べます。
冬は、お爺さんは、土間で、俵を作りました。稲藁は沢山あったので、簡単な機械で、俵を編むのです。その他、土間は作業場として使われ、白菜、ホウレンソウ、大根などを青果市場に出す、準備をしてました。
とにかく、1年中、働いて、働いた人でした。