(一部、訂正、1944年を、昭和44年に)
今日は、一寸、変わったものです。小生、相沢忠洋さんですが、昭和44年の正月、伊勢崎市の赤堀で、相沢忠洋さん宅を訪ねました。バスで降りて、北側、2キロメートルの所に、彼は住んでおりました。家の入口には猿が、激しく、小生を威嚇しました。家の中から相沢さんが、出てきて、猿をしかりつけました。
家の中は、土器のかけらや、石器が、所狭しと、置いてありました。
相沢さんは、その時「後、7年足りない」と、言ってました。「後7年、時間が有れば、何とかなるんだ」と、言ってました。研究の世界とは、時間との戦いだと、気が付きました。
その頃の小生は、これから、この先、どう生きたらよいかと、考えている時でした。
1時間くらい話して、そこへ、40歳くらいの男(この人も、考古学関係の人でしたが)が来て、その男の運転で、伊勢崎駅まで、3人で行き、そこから、両毛線で、家まで帰った記憶です。
(ネットより)
第2次世界大戦の頃までの考古学者は、発掘を進めて赤土(関東ローム層)が出るとそれを「地山」と呼び、それ以上掘ることはありませんでした。土器を使っていた縄文時代(世界史では新石器時代にあたる)の人々が日本の最初の住人だと考えていたからです。
この考古学・日本史の常識を覆し、日本にも世界史でいう旧石器時代段階に人々が生活していたことをはじめて明らかにしたのが、岩宿遺跡です。
1946年、切り通しの道となっていた岩宿遺跡を通りかかった相沢忠洋は、切り通しで露出していた赤土(関東ローム層)から、石器を発見しました。相沢はその後も、何度となくその崖を調査し、赤土の中から次々に石器を見つけましたが、土器が伴うことはありませんでした。当時は、1.5万年以上前の火山灰でできた関東ローム層の時代には、ヒトが住めなかったといわれていましたが、自分が確かめた事実を信じ、1949年の夏、ついに誰が見ても疑いようのない黒耀石の石槍を発見しました。
この発見は、いち早く東京の学者に知らされ、相沢さんと明治大学が岩宿遺跡を発掘調査をすることになりました。
学習史跡】岩宿遺跡 群馬県【旧石器時代】
https://www.youtube.com/watch?v=xQgEHlUKT70