不便を感じてました。そして海外を見れば
ベトナム戦争で九州は昭和で言う九州戦争と
比喩されるくらいのやくざの抗争があって
この国を変えたいと思ってベトナム戦争に
介入して戦いを止めたのですが激化して、
戦略を変え両軍に指示して激化を煽って
短期間で終戦するように九州のやくざの
構成員達と大阪のやくざを、同じ抗争で
命を落とすならとベトナム復興のために
構成員の働きで戦略を組んで命を投げ出して
終戦への作戦で状況を知るためにベトナム人の
知り合いが居る者を探し状況を伝って知り
聞かない者は前線に送り終戦に一番効く戦略を
使って短期間で復興に導き今まで構成員で
稼いだ資産でオーケストラを支援し楽器類を
揃え楽団で興行を打って早急に国土開発を
日本の国土開発と併せ復興計画を建て建設も
支援し日本と同様に図面を起こし村を町にして
大工と設備業者を派遣しベトナム現地で会社を
起こし保険会社を始めに起業させて金融機関を
備えさせ建築教育の師弟関係を築き現地の人材を
集め食堂を造って金融の成長期をアジアで造り
基礎を造って経済交流を測り日本の金融機関にも
友好な日本の戦争処理の意見を添えて昭和天皇の
憲法九条の意思を伝え経済復興をアジアで成し遂げ
て日本のJIS規格も影響しのちの規格の参考になって
世界の平和に貢献し今では私が築いた成長戦略で
人材の交流などで経済成長しています。
そしてやくざも人の子で更生して社会の一員になって
子供には教育を授け会社経営を教え教育者となって
某県で国会議員になった人がいます。