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知床旅情 4年8月19日(金)21時01分

知床旅情 加藤登紀子


この知床旅情で、新しい、情報が入りました。日経新聞、令和4年8月12日(金)私の履歴書、山崎努より。


2作目の「地の涯に生きるもの」では、久彌さんの即興の能力にびっくり。あの名曲「知床旅情」はこの映画の宴会シーンで森繁さんが即興で作詞作曲したものである。撮影中に久松静児監督が突然、「ここでひとつ歌が欲しいな。繁さん、何か歌え」と言った。


場面は知床の漁師の息子(僕の役)の出征を祝う宴。森繁さんは、土地の匂いのする歌をイメージしたのだろう。セットのちゃぶ台に紙片を置き、「・・・知床の」「・・・岬に」とエンピツで書きつけ、口ずさむ。昼食休息があり、そして出来上がったのがあの曲。森繁節で見事に歌った。だから、あれはもともと、我が子を戦場に送る借別の曲だったのである。あの場に居会わせた人ももうほとんどいなくなったと思うので、生き証人として記しておく。(以上です)

 

加藤登紀子の声を聴くと、心が落ち着く。昭和46年頃、北海道ブームで、えび族(リュックが縦に長い)、かに族(リュックが横に長い)と言われた若者が、北海道で野宿をして、安い費用の旅行を楽しんだ。テントを張らなくてもよいので、駅の待合室が、夜、ごったがえしたという。小生の友人もその一人だった。この友人は、小さなリュックで、駅で寝起きするのが、専門だった。

 

(クリックすると出ます)

https://www.youtube.com/watch?v=d2fIZ5N6Za0 

 

 高度経済成長の後半で、この頃から、日米経済に貿易摩擦がでる。昭和46年は、ニクソンショックがあり、1ドル360円の、固定相場制から、現在の変動相場制に移行した年でもある。

この頃は、ベトナム戦争で、アメリカ軍と北ベトナムの共産軍が戦っていた。反戦歌( 「花はどこにいった」とか、「ドナドナ」 )がよく歌われた。


またフオークソングの全盛期でもあった。吉田拓郎が、よくコンサートをした。「人生が2度あれば」、とか「東へ西へ」とかが、記憶にある。

 

アメリカでは、ヒッピー(現実の生活を逃避した、ドロップアウトした若者)が出現した。「ワシントン広場の夜はふけて」も、ヒッピーと関連するのだろう。この北海道ブームも、このヒッピーと、関係があると思う。


 また、学園紛争が後半に入った時でもあり、中核派、核マル派などの、新左翼と言われた共産主義運動が生まれた。赤軍派の群馬県の榛名山、軽井沢の別荘占拠事件は有名である。社会が騒然としていた。


(余談ですが、小生映画の「突入せよあさま山荘事件」に、エキストラで出演しました。CDを買えば、小生が見られます。今はCDでもないかな)


 ウーマンリブとか言われ、女性解放運動もあった。ボーボワール女史の「第2の性」がよく読まれた。慶応の先生、伊藤たい吉先生が、「中小企業論」の講義の中で、ボーボワールが慶応で講演をしたときに、あまりの迫力で、聴衆が圧倒されたと言っていた。


また、これに反対するような、人生、スモール、スモールの風潮もあり、「赤ちょうちん」とか、「学生時代の喫茶店」「妹よ」なども歌われた。


今の時代を見ると、みん株でもそうだが、私事の、コジンマリしたブログが目立つ。これも時代だと思う。成熟した社会で、安全に生きる方法であるが、どこか物足りない。


 

7件のコメントがあります
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    堅実さん
    2022/8/19 21:28
    堅実  です

    ユーチューブの画面と、久彌の「地の涯に生きるもの」の我が子を戦場に送る借別の曲は、イメージが違うのですが、まあ、仕方ないか。

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    こんばんは。
    芸能界は,会を組んでる総人数を考案し広報などで講演会などで
    資金を集め芸能界の資金を集めて興行してました。
    私は思いつく作詞を造ってお金は後で着いて来ると言って
    経済を潤わせ金融機関の走りで起業させ会社を設立させ国を
    大きくさせ力を蓄えさせてました。
    そして国会を動かして金融街を潤わせていた時代です。
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    風車の弥吉さん
    2022/8/20 10:19
    こんこん。

     知床の 短き夏の 旅情かな  季楽庵

    若い頃一度ですが、北海道を一周してきた思い出があります。
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    堅実さん
    2022/8/20 13:26
    ISAY企画  さんへ

    「私は思いつく作詞を造ってお金は後で着いて来ると言って経済を潤わせ金融機関の走りで起業させ会社を設立させ国を大きくさせ力を蓄えさせてました。
    そして国会を動かして金融街を潤わせていた時代です。」

    いろいろ、やったんですね。大したものです。



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    堅実さん
    2022/8/20 13:36
    風車の弥吉  さんへ

    「知床の 短き夏の 旅情かな  季楽庵 」

    「知床の、体験無いが、思い出は」

    「若い頃一度ですが、北海道を一周してきた思い出があります。」

    これは、凄い。当時は、山口百恵の「いい日、旅立ち」も歌われ、当時の国鉄は、この歌を使って、宣伝していましたね。
    当時は、活気があって、世の中、ざわざわして、いましたね。
    夏は、未だ、クーラーの無い時代で、案外、暑さで、いらいらしていたのかもしれません。
    別の、友人は、夏の北海道は、暑かったと、口をそろえて言ってました。外で、荷物を背負って、動けば、そりゃー、あちちち。日差しは強いし。




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    片栗さん
    2022/8/22 09:57
    私が最初に北海道を旅した時はキスリングのザックを背にしカニ族もどきで宿泊費ゼロの行き当たりばったりでした。そのおかげで知床岬にたどり着く事が出来ました、灯台に通じる階段で爺爺岳の雄姿見ながらの弁当は格別に美味しかった、ただ山頂には曇がかかっていて爺爺岳特有の二重火山を見ることが出来なかったのは残念でした。

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    堅実さん
    2022/8/22 10:04
    片栗 さんへ

    よい思い出ですね。カニ続ですか。やはり、駅で寝泊まりですか。思うのですが、お風呂は、どうしたんでしょうね。
    当時は、コンビニもなく、弁当を食べるのに、大変だったと思います。山口百恵の、「いい日旅立ち」の時代ですね。

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