いけないでしょうね。あきらめてはいけません。
とはいえ、考えてみれば、自分が幸せになりたい、と思った
記憶はありません。
・このひとを幸せにしたい。
・幸せな家族を持ちたい。
・家族を幸せにしたい。
・このこたちが将来しあわせになりますように・・・
まぁ「しあわせ」は相対的なもの、主観的なものなので、
自分がそう感じるために、自分という個ではしあわせは
成り立たないのでしょうね。
妻「誰を幸せにしたって(△"△)??」
栗「あわわ。ごめんなさいぃ~」
こんな妻が今でもそばにいる理由を考えてみました。
最近、身近な人で、やたら苦労してる感を出すひとがいて
気が付いたのですが、わたしは自分が苦労をしていると
おもった記憶もないのです。
眼の前の問題を解決するのにいろいろ活動する、のは
当たり前で、いちいちそれを嘆いている暇はないですね。
妻はそういうわたしのことをほっとけないのではないでしょうか。
妻「誰が苦労してないって?」
栗「わたし。あ、それは苦労がないという意味じゃなくて、苦労をいとわない、というようなことかと。」
妻「ほっほー(θ"θ)」