元祖SHINSHINさんのブログ

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平安時代の歴史(源氏物語も)は、同性愛抜きでは語れない?

鞍馬寺にて遮那王と名乗っていた義経公が、稚児であったのは有名だ。

その流れで、義経公と弁慶との関係も、そうであろうと推察できる。

 

江ノ島にも、稚児ヶ淵という曰くのある地名が残っているので、

その昔には、そういうこともあったのだくらいには思っていたが。

 

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(略)私も断片的には当時の物語などから推察していたが、公家や僧侶ばかりでなく、

武家の間にも男色がこれ程蔓延していたとは思わなかった。

五味文彦著『院政期社会の研究』(山川出版社)を読んではじめて詳細を知ったのである。

 

それによると、(藤原)頼長の寵人は、名前がわかっている貴族だけでも七人に及び、

その他の下人、隋身や牛飼童に至っては枚挙にいとまもない。保元・平治の乱のことを追求していると、どうしても男色関係に行きつくので、書くのがいやになってしまったと、五味氏がいわれたという話をどこかで聞いたことがあるが、この著書の「あとがき」にも、「何しろテーマがテーマだけに公表することにあまり気はすすまなかった」と記している。

 

神護寺に似絵の名手、藤原隆信が描いた優れた肖像画がある。最初は後白河法皇を中心に、平重盛、源頼朝、藤原光能、平業房(これだけは損傷したのか今はない)が並んで安置されていたようだが、現在、後白河法皇の御影は蓮華王院に移されている。法皇の追善供養のために描かれたもので、頼朝や重盛はわかるとしても、光能、成房などあまり聞いたことがない人たちが何故そこに肩を並べているのか不思議だった。不思議というより、私の場合、あまり深く考えてもしなかったのが実情である。

 

ところが、今度五味氏の著書を読み、彼らが後白河法皇と男色関係にあったことを初めて知った。さすがに頼朝だけは疑問を持っていられるが、二人が接触する機会がまったくなかったわけではなく、保元四年(一一五九)十三歳であった頼朝は、上西門院の蔵人となり、右兵衛権佐に任ぜられたいた。法皇と上西門院が親しい間がらにあったことを思えば、法皇が頼朝に目をつけたとしても不思議はない。ただし、確証のないことだから、今後の検討にゆだねることにしたい、と五味氏は断定をさけている。

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★「両性具有の美」

  白洲正子著 新潮文庫 430円+税 H15.3.1.発行 H24.3.15.第七刷

  P.68~69より抜粋、赤字はオイラが付記

 

こういった視点で、白洲正子は歴史上の人物をいろいろと挙げている。

日本武尊が女装して討った熊襲の首長・タケル、薩摩隼人の慣習、北面の武士、

在原業平、西行、観阿弥、南方熊楠、折口信夫などなど。

 

後白河法皇が義経公のみならず、実は実朝にも惚れていたとすると、

どっちの味方をするべきなのか、誠に苦渋の決断だったと知れる。

 

源氏物語では、空蝉の段にて、白洲正子の鋭い洞察が書かれており驚いた。

 

また、「能は男性の世界だった」と、晩年彼女は語っていたそうだ。

彼女には「男性になりたいコンプレックス」があったようで、

それが起因してこういうエッセイを書いたと思われるが、実にオモロイ話なのであった。

 

南方熊楠に関しては、伊勢白山道氏も折りにつけ触れているが、

こういう視点を語ったことはない。

 

PS:夢枕獏の「陰陽師」も、こういう視点でキャラが構成されたのかも知れない。

   彼は平安時代の実情について疎かったので、ある女性の指南役が付いていたそうだ。

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