サイコさんのブログ

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アツー!

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  資格ブログ村  法律系資格 現在 40位   士業(弁護士、会計士等)  現在 11位〈民主〉と〈愛国〉  戦後日本のナショナリズムと公共性久しぶりに借りてきて続きを読み直しているのであるが、1968年の全共闘運動は直接この本の分析の埒外としながらも、この運動をした学生たちによく読まれていた吉本隆明の変節を紐解くのにベース的に概略されている。ちょうど図書館でこの本を探しているときに発見したのであるが、1968(上)という全共闘を分析した本をなんと小熊英二は今年の7月に出してたりする。これが上ということは下も出すということだからなんと膨大な量の分析であるか。流石にそんな昔のことには付き合いきれない感じである。さて、この吉本隆明を戦中派の左派系として、この章の後に戦後派の右派系論壇者として江藤淳を分析している。両者とも戦後の高度経済成長期の主要な思想家、評論家であり、そこに纏わる言説から言語概念の変遷を分析しているのであるが、両者が戦後民主主義批判を展開する上で攻撃の対象としていたのが、丸山真男など戦前派となる進歩的文化人たちであった。ちょっとここで話がそれてそのまま終わってしまうと思うのだが、この著者小熊のウィッキを見てもらうとわかるのだが、この「進歩的文化人にカテゴライズされる旧世代の左翼人」を賛美するということ、それに代表される丸山真男への好意的解釈がこの本の前提にされるとして、丸山を批判しつづけた吉本隆明やブントを代表するような新左翼に対して冷淡に写るのはしごくもっともなことだと思われる。ただ、サイコとしては吉本、江藤を〈民主〉と〈愛国〉で展開するときに、吉本に対してはその攻撃性のままに描き出していて、吉本の論調で本人を描き出そうとしているように思えるし、方や江藤に対しては「オタク」的排他感でもって分析のためいやいやながらも描き出さざるを得なかったというような感覚を受けるのである。ウィッキで解説されているほどの悪意ではないはずで、だとしたら新刊の1968(上)は上巻だけで1000ページを越すのに、全て悪意的解釈、もう少し言うと呪詛的な分析でもしていることになるのだが。別段小熊を擁護するわけでもないのだけれど、ベ平連や鶴見俊輔を無批判に受容し検証なく分析した結論に難癖を点けたがっているのは新左翼系及び右派系であって、単に極めてカルチャラル・スタディーズな戦後史として有効だと思うのだが。さて、確かに小田実の章において、ベ平連と鶴見に対して批判なく書いているようにも思うのだが、そうした批判の矛先として書いているわけではなく、例えば今や歴史的評価が大きく下落したベ平連という書き方がないというだけで、浮き彫りにしたいのはベ平連という活動の中で現在使われているような「市民」という概念が定着したのだ、ということである。そして、ベ平連はいわゆる「市民運動」というスタイルの嚆矢であったわけで、裏金やなんやらという実体が明らかにされて地に落ちたのだが、歴史的にその活動自体はあったわけで、曲がりなりにも現代の「市民運動」に繋がっていることは間違いないだろう。まぁ、それはそれで批判性が吉本や江藤の分析に比べて薄いことも確かなのではあるが。うーん、でも、もう少しで読了するんだけれど、流石に1968(上)を続けて読むのはねぇ~ 兎に角、行政書士試験が終わるまでおあずけだ。グゥーーーーー
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