ユリウスさんのブログ

最新一覧へ

« 前へ589件目 / 全702件次へ »
ブログ

シュリーマンの見た幕末の日本

F4291aa99  

 戦後、教科書に載っていたので日本人にもよく知られているトロイア遺跡の発掘者、シュリーマンが、その発掘を始める前に日本に来ていたとは翔年は知らなかった。

 今日、ハインリッヒ・シュイリ-マン著、石井和子訳「シュリーマン旅行記 清国・日本」を読了して、改めてシュリーマンの天才振りと中国や日本を見る目の確かさに驚ろかされた。

 彼が世界旅行の途中に日本に来たのは1865年、NHKの大河ドラマ「篤姫」の時代だったのです。日本はどんな時代だったのかちょっと見ておくことにしましょう。

1853年 徳川家定の時代 ペリーが浦賀に来航
1854年 日米和親条約、日英、日露和親条約
1858年 徳川家茂の時代 日米修好通商条約調印
1860年 咸臨丸が太平洋を横断
1865年 シュリーマン(43歳)世界旅行に旅立つ。処女作「シナと日本」を執筆
1871年 トロイア発掘

 一番驚いたのは中国でも日本でも、旅先の出来事を先入観や偏見を全く持たず、キチンと観察して正確に記述していることでした。彼の目に写った当時の清国と日本はこうでした。

「私はこれまで世界のあちこちで不潔な町をずいぶん見てきたが、とりわけ清国の町はよごれている。しかも天津は確実にその筆頭にあげられるだろう。町並みはぞっとするほど不潔で、通行人は絶えず不快感に悩まされている。」

「日本人が世界でいちばん清潔な国民であることは異論の余地がない。どんなに貧しい人でも、少なくとも日に一度は、町のいたるところにある公衆浴場に通っている。」
「浴場は、道路に面した側が完全に開放されている。名詞に男性形、女性形、中性形の区別を持たない日本語が、あたかも日常生活において実戦されているかのようである。夜明けから日暮れまで、禁断の林檎をかじる前のわれわれの先祖と同じ姿になった老若男女が、いっしょに湯をつかっている。かれらはそれぞれの手桶で湯を汲み、ていねいに体を洗い、また着物を身につけて出て行く。
『なんと清らかな素朴さだろう!』初めて公衆浴場の前を通り、三、四十人の全裸の男女を目にしたとき、私はこう叫んだものである。」

 その後でいろいろと考察して裸や男女のことについてこう書いている。
「なぜなら、人間と言うものは、自国の習慣に従って生きているかぎり、間違った行為をしているとは感じないものだからだ。そこでは淫らな意識がうまれようがない。父母、夫婦、兄妹ーすべてのものが男女混浴を容認しており、幼いころからこうした浴場に通うことが習慣になっている人々にとって、男女混浴は恥ずかしいことでも、いけないことでもないのである。」
「(前略)もし、ヨーロッパの女性達の服装を見たり、彼女達が男性と踊るところを目にすれば、きっと、およそ慎ましさの規則から大きく外れていると思うだろう。」

 彼の好奇心は留まるところを知らず、監視役として随行する5人の役人に猛反対されながらもそれを押し切り、大芝居?とよばれる大劇場も見物している。驚いたことに、日本語がまるっきり分からないにも係わらず、かれは芝居の内容を完全に理解してこう記している。
「(前略)もし、日本人が淫らなシーンに気分を損ねるような観客であったならば、幕がおりるまでとても耐えられなかっただろう。
 劇場はほぼ同数の男女の客でいっぱいで、誰もがこのうえなく楽しんでいるように見えた。男女混浴どころか、淫らな場面を、ああらゆる年齢層の女たちが楽しむような民衆の生活の中に、どうしてあのような純粋で敬虔な心持が存在し得るのか、私にはどうしてもわからない。」

 翔年の常でちょっと「裸」と「淫ら」にこだわりすぎたようです。最後は当時の税関役人のこの描写で締めたい。
「次に中を吟味するから荷物を開けるようにと指示した。荷物を解くとなると大仕事だ。できれば免除してもらいたいものだと、官吏二人にそれぞれ一分(2,5フラン)ずつ出した。ところがなんと彼らは自分の胸を叩いて「ニッポンムスコ」(日本男児?)と言い、これを拒んだ。日本男児たるもの、心づけにつられて義務をないがしろにするのは尊厳にもとる、というのである。おかげで私は荷物を開けなければならなかったが、かれれは言いがかりをつけるどころか、ほんの上辺だけの検査で満足してくれた。一言で言えば大変好意的で親切な対応だった。彼らはふたたび深々とおじぎをしながら、「サイナラ」といった。」

 シュリーマンは、日本には世界の常識では計り知れないこういう役人がいた事実をキチンと書いて、パリで出版してくれたのですから、翔年は嬉しくてなりません。日本人なら感謝しなくてはなりますまい。
コメントを書く
コメントを投稿するには、ログイン(無料会員登録)が必要です。