ユリウスさんのブログ

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湯川先生と漱石の接近遭遇

 25日(月)の「新エッセー岡部塾」に提出する作品ができた。今回は本好きで、かつ、一番尊敬している湯川秀樹先生と夏目漱石が本の上で接近していると言う、翔年にとっては、大変興味のある発見を書いたのだけど、二人の偉人への関心の薄い人にとっては「単なる偶然やんか」と簡単に片付けられてしまうことかも知れません。


 『湯川先生と漱石の接近遭遇』  松本 護

 ノーベル賞を受賞された理論物理学者、湯川秀樹博士の随筆集『現代科学と人間』と先生の自伝とも言うべき『旅人(ある物理学者の回想)』は私の大切な本である。前者はいつ読みかえしても新しい視点を教えてくれるし、後者は人生に対する深い洞察を示唆してくれる。自らを「孤独な我執の強い人間」と語りながら、心に去来する人生の空しさを淡々と説く先生の随筆は深い瞑想的な静けさをたたえている。また、研究者としての活動の他に、文明論・科学論・教育論・平和論など広い分野にわたる卓説は、知らず知らずの間に蒙を開いてくれる。
 とりわけ、私のように湯川先生を尊敬してやまない者にとって、学問上の業績よりも、この二冊は湯川先生のお人柄を身近に感じさせてくれ、尊敬の気持ちがしみじみとわいてくる。

 閑話休題。
 さて、今年の正月、ゆったりした時間の中で「旅人」を手にしていたところ、「あれっ」と思う面白い箇所を見つけた。そこには『理論物理学者、湯川秀樹と文豪、夏目漱石の文学作品における接近遭遇』ともいうべき稀有なことが記されていた。

 「『行人』は大正元年から二年にかけて朝日新聞に連載された。漱石が『行人』の中で玄洋を目に浮かべながら書いていたことは確かである。」玄洋とは随筆の少し前の方に、「もしこの縁談が成立すれば、同時に私は湯川家の人となる話し合いになっていた。私にとってそれは異例なことではなかった。私の実父も母方の祖父も、そろって他家から来た人であった。先方の湯川玄洋という人も養子であった。」とある。玄洋とは先生の奥様のお父上のことである。

 その玄洋氏を漱石は「行人」でこのように描写している。
「院長は大概、黒のモーニングを着て、医員と看護婦と一人ずつ随えていた。色の浅黒い、鼻筋の通った立派な男で、言葉使いや態度にも、容貌の示す如く品格があった。三沢氏が
『まだ旅行などはできないでしょうか』
『潰瘍になると危険でしょうか』
『こうやって入院した方が、やっぱり得策だったのでしょうか』
などと聞くたびに、院長は
『ええ、まあそうです』
ぐらいな簡単な返事をした。……」

 ここを読んでいるうちに、「もうちょっと、ここのいきさつをハッキリさせたい」という私の調べもの好きの性癖が疼いた。

 湯川先生の随筆は小宮豊隆氏の「夏目漱石」によって、明治四十一年、漱石は胃潰瘍を患って湯川病院に入院したとしている。
ところが、漱石の年譜を調べてみると、一年後の明治四十二年八月、漱石はひどい胃カタールに冒されたため、当初の予定を遅らせて、九月に大阪から四十数日間の満州・朝鮮旅行に出かけている。これだ。一年の誤差の真偽はともかく、漱石は満州・朝鮮への長旅を前にして、当時、大阪の今橋三丁目にあった奥さんの実家、湯川胃腸病院に入院していることは間違いないと確信した。

 胃の痛む漱石が「まだ、旅行などできないでしょうか」とか「潰瘍になると危険でしょうか」とか、何やかやと不安げな質問を、湯川先生の父上に連発している情景が目に見えるようでおもしろい。

 これは偶然による歴史的事実を、ただ資料から裏づけただけのことだから、普通の人にはなんということもない事柄だろうけれど、本の中とはいえ、湯川先生と漱石がこのように偶然に接近していたことを知ったのは、私にとって大きな喜びであった。(2008/08/25)


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