元祖SHINSHINさんのブログ

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証言者

(略)加えてここには、歴史の「証言」となることはどういうことか、

という本質的な問いが浮かび上がっている。

出来事の報告者たちがその出来事の登場人物でもある、ということは、

実はすべての真正な歴史証言に必須の事態である。

 

なぜなら、証人であるということの中には、当事者であるということが含まれるからである。

誰も、第三者を介して知ったことを「証言」することはできない。

 

歴史の証言者は、常に自分が証言しようとする出来事の一部である。

目撃した出来事を、自分がそこに居合わせ、

気がついた時にはすでに自分をも否応なくそれに巻き込まれていたところの出来事として語るのが

「証言者となる」ことの本質である。

 

したがって、物語る証言者は、必ずその物語中の登場人物でもある。

その「出来事内在性」が、証言者に証言者たる資格を与えるのである。

証言者は、自分を語ることなくして歴史を証言することは出来ない。

歴史はすべて、誰かによって語られた歴史なのである。

 

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★「反知性主義 アメリカが生んだ熱病の正体」

  森本あんり著 新潮選書 「第二章 信仰復興運動 反知性主義の原点」 P.79より抜粋

 

石原慎太郎は、その著書「天才」にて、

登場人物である田中角栄を敢えて一人称として語らせた。

その巻末には、立花隆初め多くの書籍が、参考図書としてリストアップされている。

結果、他界した田中角栄は、自分を語ることによって歴史を証言したことになる。

 

工藤美代子が、自分史の書き方についてレクチャーした書籍を出すらしい。

今の世は、読むことよりも書くことを好む人が増殖しているのが、その背景だからという。

ところが自分史の場合、田中角栄のような有名人ならばオモロがって読み手もあるだろうが、

一般人がこれをするとなると、嘘八百並び立てても他人にはそれはわからないという点で

大きなネックとなってしまい、自費出版したとしても売れる要素はほとんどないということになる。

 

こういう前提問題を打破する要素とは、いったい何であろうか?

 

沢木耕太郎「深夜特急」のように、小説仕立てにするとか。

末井昭「自殺」のように、ノンフィクション風に仕立てるとか。

 

小説仕立てにする場合は、

北方謙三親分のような文体を除いて、

村上春樹のようにゆったりと書くのが主流となっているが、

そーすると場合によっては長すぎてしまい、

プルーストの「失われた時を求めて」のようなことになりかねない。

(このあいだ書店で、それを強引に一冊にまとめた角田光代の作品をみかけたが)

 

書くということは、なんと奥が深い行為なのだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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