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気持ちの器を大きくする本 - 堀江貴文「希望」論


いま読んでいるのが、堀江貴文の「希望」論。司法に対する毒々しい棘ある部分を除けば、ああ、堀江とはこういう人物なんだろうな、というのが伝わってくる1冊。物事にあまり執着しない彼の生き方は、たいてい執着心の塊と化す一般人とは相容れないものがあるのだろう。朝令暮改な生き方は普通できない。商売を始めたら、何代と続けて老舗となるのが「善し」とされる世の中にあって、潰れて当然、そこに向かうことを常とする感覚は、それなりの達観を要する。しかし、IT革命以降、誰もが感じているビジネスモデルの命の短さを考えると、堀江の考え方に共感できるところがずいぶんとある。また、出版は趣味でしかない、仕事ではない、と断する感覚もまた共感できる。農業革命、産業革命を経て、人類が暇になって、余暇を楽しめるようになり、遊びまくる人生に変わってから誕生した産業は、しょせん仕事ではなく遊びだとする彼の持論は、いまこうしてブログを書いている、あるいはそれら情報発信を商売とする私にも、「それってしょせんは趣味でしょ。なくてもいいものでしょ?」と言われれば、「はい、そうです」といわざるを得ない。しょせん、金融など、その程度の存在でしかない。なくてもいい。なくてもいいが、なぜか庶民は(富裕層も)、その富にしがみつく。たいした富でもない。わずか数十年で築いた富など、それにしがみついていては、次に進めないのに。衰退することを自然と考える古典の世界を冒頭に引用して、その衰退を忌み嫌うことこそ不自然、と解くあたりに、彼の本質がある。人類がいて、人類が環境を破壊するなら、それもまた地球の自然な運命であり、その先にあるものはきっと、人類の破滅と、地球の存続であろうと、おぼろげに示唆する彼の意見に、ややハッとするものがあった。エコは人類のエゴでしかない。もちろん、自然破壊もエゴだ。どちらもエゴだ。エゴが悪いわけではないが、そのことを理解していると理解していないとでは、少し違うと感じた。情報量がチャンスの量を左右するとの話も納得。大量の情報を処理し、考え、行動する人間と、そうでない人間との間で大きな差が開く2極化は、全体が余計な富を生み出そうとすればするほど、生じるGAPであることを痛感する。いまからでも遅くはない。遅くはないが、時間は刻々と消えていく。やはり、子供たちに考えるクセをつけさせる教育こそが、日本を救うと考える。正解を教えるのではない、絶え間なく情報を与え、考える場を与えること。1人当たりの考える時間が増えれば、国は豊かになる気がする。つまらぬ、くだらないことに興じる時間、何も考えない時間、無駄な空想にふける時間、そんなものを縮小させる道は、教育しかない。教育が実行されるためには、結局オトナからである。まず改革すべきは、オトナなのだろう。好き、嫌いに関わらず、堀江と対等に話せる人間は少ないと思う。それだけ、彼は考えている。最近、年下に刺激を受けることが増えた。先日会った金融情報系の社長も28才だった。とてつもなく、考え、時間を限りなく有効に費やしている。そういう人間に、富が集まる時代なら、国として豊かになるには、国民全員が、そう変わることができなければならない。ブラジルが、教育改革で貧困から脱却したように。青臭くも、生きる意味を考え直す時代のような気がする。(残り数十ページが未読の状態での書評です。)
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