宮ちゃん◎リーマンさんのブログ

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[人物伝]池田敏雄氏の生と死(2/3)

その後,池田はFACOM 100と命名された計算機の設計を担当し,1954年10月にこれを完成させた.この計算機は,日本初の科学技術用実用リレー式計算機であって,内部10進3余りコードを用いる海外には例を見ないものであった.FACOM 100は社内外の委託計算に利用され,人手でやれば2年はかかる計算を引き受け,湯川秀樹の多重積分を3日間で完璧な回答を出した.FACOM 100の完成後直ちに商用機の設計に入り,1956年9月リレー式計算機FACOM 128Aを完成させた.その1号機は文部省統計数理研究所に,2号機は同年11月に有隣電機精機に納入された.この計算機は内部10進であるが,2・5進コードに改められ,その他の工夫もあって,演算速度は2~5倍向上した.その他方式的には独自のチェック方式と非同期方式,クロスバースイッチによる記憶装置,大きな紙カードによる半固定記憶装置,インデックスレジスタの採用など多くの工夫が凝らされていた.これらの考案はそのほとんどが指導者であった池田敏雄個人の発案であった.

1954年には,後藤英一がパラメトロンを発明した.池田もパラメトロン式計算機の開発に力を入れ,1959年,磁気コアとフジカード読取機(ROM)の併用によるプログラム記憶方式を採用したFACOM 212,1960年電気通信研究所の技術による MUSASINO-1B(FACOM 201),東大との共同開発によるPC-2(FACOM 202)などを手がけた.

また,半導体技術の将来性に着目した池田は,パラメトロン式計算機の開発と並行してトランジスタ式計算機の開発にも手を着けており,1961年,主記憶に400語のコアを持つ大型汎用機FACOM 222Pを完成させた.さらに通産省の補助金によって1964年に完成したFONTAC (富士通・沖電気・日本電気 共同) の開発では,その指導的役割を果たした.

1964年4月,IBMがシステム/360シリーズを発表したが,池田の努力により,富士通はその翌年にはFACOM 230シリーズを発表しこれに対抗した.この頃からIBMを意識した池田の戦略が始まる.その意識は超大型計算機FACOM 230-60の開発によく表れている.1968年京大に納入されたその第1号機は主記憶を共有する2台のCPUを持ったマルチプロセッサシステムという画期的な構成であった.

コンピュータの事業化に成功した池田は,次に世界戦略に着手する.その手始めとして,1972年米国アムダール社とIBM互換機の共同開発を行うことを公表し,その成果は,FACOM M-190として結実した.

池田はコンピュータの事業化に注力しつつも,夢を抱くことを忘れることはなかった.1968年,米国CDC社がスーパーコンピュータSTAR(STring ARray computer)を発表したことを知った池田は,直ちに独自のスーパーコンピュータを開発すべく動きだした.折しも航空宇宙技術研究所の三好甫がコンピュータ風洞の構想を持っており,三好の指導と池田の社内推進によって国産初のスーパーコンピュータFACOM230-75APU(Array Processing Unit)が誕生した.

このように,池田は一貫して同社計算機の技術的指導者であった.1974年常務取締役の時代に激務のためか羽田空港ロビーで卒倒し,不帰の客となった.APUは1977年に航空技術研究所に納入されたが,その完成を池田が見ることは叶わなかった.しかし,池田の夢は,1982に発表されたFACOM VPシリーズならびにそれ以降の富士通のスーパーコンピュータに脈々と受け継がれている.





「会議で池田さんがセキでもすると、社長自ら上着を持って行って、池田さんの肩にかけたというほどです」というエピソードが田原総一朗氏の労作「日本コンピュータの黎明」に紹介されている。池田敏雄という一人の人材に富士通は社運を賭けた。当時の岡田社長の大号令のもと国産コンピュータ開発に乗り出したのである。1960年代のはじめのことだった。池田敏雄のまわりには、後に富士通社長となる 小林大祐氏や山本卓眞氏など選りすぐりのメンバーが配置されたが、すべては池田敏雄一人の頭脳にかかっていた。

池田敏雄は1923年日本国の東京両国で生まれた。その年はちょうど関東大震災のあった年で、 池田敏雄は生まれたばかりだった。震災で東京の下町は壊滅的な被害にあったが、 奇跡的に彼と家族は無事だった。1936年東京市立第一中学校(現在の都立九段高校) に入学した。
 好きなことは徹底的に凝るが嫌いなことは全然やらない という天才肌はこのころからだったらしい。バスケットボールに集中し全国優勝している。1941年浦和高校に入学、囲碁とクラシック音楽が池田敏雄の凝り性リストに加えられた。数学の才能は際だっていた。1943年東京工業大学電気工学科に入学した。終戦後1946年大学を卒業し、富士通に入社した。就職難だった。

その後富士通はリレー式計算機から始め、コンピュータ事業に参入していくが、 中心には常に池田敏雄がいた。彼が構想を練り、新しい回路を設計しコンピュータができていった。 池田敏雄は熱中すると朝まで自宅で仕事し続けるので、しまいには会社に出勤しなくなって しまったらしい。この規格外社員に社内から批判が集中したが、守る人たちがいた。

「このときも、尾見や小林が奔走して、処分はもちろん、給料カットも跳ね返したばかりか、大幅遅刻を続ける池田に限っては、その遅刻の有無を問わない「月給扱い」にするという特枠を会社にみとめさせたのである」。電電公社の小さな下請け企業だった富士通は、その後、池田敏雄のコンピュータとともに成長した。 役職があがるたび池田敏雄の役割もより大きいものになっていった。

ジーン・アムダールは、IBM System/360のアーキテクチャを作り上げたデザイナーだ。池田敏雄はそのアムダールがIBMを去る前の年1969年に密かに彼と会った。一流の技術者どおし波長が合ったのだろう、すぐに意気投合したらしい。翌年アムダールはIBMを退職しアムダール・コーポレーションを設立した。富士通はアムダールの事業をとっかかりにIBM互換機ビジネスに乗り出した。しかしアムダールの事業はうまくいかず、富士通はどっぷりと泥沼につかることになった。池田敏雄もアムダールをバックアップするためかけずり回った。1974年この間の殺人的スケジュールと過労がたたったのだろう、羽田空港で急逝した。カナダからの来客を迎え、握手した瞬間のくも膜下出血だった。51歳。

「私の人生に最も影響を与えた天才はあっと言う間に、生命をコンピュータ開発に燃やし尽くしてしまった。何と生き急いだことか。富士通はこの日、池田氏を専務に昇格させたが、本当に壮絶な戦死だった」
      「私の履歴書 山本卓眞」日経新聞1999/03/20朝刊
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