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[人物伝]ソニーの創業者の隠れた素顔(1/2)

ソニーの創業者井深大(いぶかまさる)氏が、知的障害児の親だったことは、ほとんど知られていない事実だ。1946年(昭和21年)の東京通信工業株式会社(ソニーの最初の社名)設立以来、仕事一筋に励んでいたため、家庭はほとんど奥さんに任せきりで、生まれたお嬢さんは、知的障害児だった。その為か、間もなく井深は離婚をしている。彼の経済力からすれば、我が子の為に、専属のスタッフをつける位は訳のないことだった。しかし彼はそれをしなかった。知的障害児のための学校を見つけ、社会的に一人で生きていける人間に我が子をする道を選んだ。忙しい中をぬって父兄会にも積極的に参加し、その学校が資金面で息詰まれば、新たな障害児の学校設立にも積極的に関与し、資金面や人事の面で努力を惜しまなかった。

彼は教育の大切さを痛感し、1969年(昭和44年)幼児開発協会を設立し、自らその理事長に納まった。特に彼は、幼児・胎児教育の大切さを強調し、次のように言っている。

「母親の役目は何にもまさる貴重なものです。母親こそ子どもをどんな人間にでも育てることができるのです。言葉をかえれば母親は偉大な芸術家であり、医者であり、牧師でもあります。そして何よりもすぐれた教育者であってほしいものです。母親は子どもを授かった瞬間からその子の人間形成にしかっりした目的意識を持ち、できるだけの環境を整えて子育てを実行することが大切なことと言えましょう。次の世代を担って立つ子どもたちがすぐれた人材に育つよう、世の中の母親一人ひとりに胎児から始まっている幼児教育の重要性をよく知ってほしいと思います」

井深の教育の根幹は、今日の知識偏重の教育とはまったく、違うものである。彼の強調したことは、幼児の時期から始まる心の面の教育だった。彼の持論は「心は頭になんかない」ということだった。そして親たちには「育児教育ほど崇高で素晴らしい仕事はない」と説き続けたのであった。

やがて彼の娘も立派に成長し、ソニーが知的障害者を雇用する専門の工場「ソニー太陽」の食堂で働くようになった。そこで井深は、娘を特別には扱わなかった。あくまでもその工場に働く一人の労働者として、井深は陰から娘さんを見守り続けた。知的障害者の親の心配は、親が歳をとって、「この子の面倒をみれなくなったら、この子がどのように生きていくだろう」ということである。

井深はその答えを、自分のお嬢さんを一人の社会人として、見守ることでりっぱに示した。彼のお嬢さん(現在58歳)は、今も先の工場で元気に働いている。ある時、井深さんは、数も数えられない我が子が、みんなの食事の世話をてきぱきとこなしている姿を、そっと見た時、娘をかわいい、そして誇らしいと、と思ったと、述懐している。

誰もソニーが、知的障害者の為の工場を持っていることなど、知らないはずだ。このあたりがソニーが、単なる日本の中の大企業としてではなく、世界のソニーと言われる所以(ゆえん)なのである。つまり井深の精神を企業化したのがソニーなのである。この文化がある限り、ソニーという企業は、ますます発展するに違いない。

1997年12月19日、井深大は、天国に召された。享年89歳。見事な人生であった。井深の墓石には、戒名はなく、ただ井深大とあり、そしてその横に自由闊達(じゆうかったつ)という言葉が掘られている。もちろんこの言葉は、井深がソニーの設立趣意書に書いた次の言葉から採られている。

「真面目なる技術者の技能を最高度に発揮せしむるべき自由闊達にして愉快なる理想工場の建設」

この言葉の意味をよくよく噛みしめよう。ソニーだって、50年前は、20名足らずの品川の町工場に過ぎなかった…。


トランジスタで世界を制す

世界初、小型化のソニーブランド
井深大の女房役に徹す


 ソニー発展の背後には、盛田昭夫のショッキングな欧米体験があった。安物の代名詞というメイドインジャパンの現実を思い知らされたのである。これを変えることが、彼の最初の目標となった。盟友井深大との友情と二人三脚でメイドインジャパンのイメージを見事に変えたのである。

世界的経済人の仲間入り

 盛田昭夫は、日本が世界に誇る大企業ソニーの創業者の一人である。戦後、20数人の町工場から今日の大企業に育てた手腕は高く評価されている。もう一人の創業者である井深大は主に技術面を、盛田は営業面を担当した。
 テープレコーダーをはじめ、世界最小のトランジスタラジオなどの独創的な製品を販売するにあたり、家族と一緒にアメリカに移り住んだ。「アメリカで売れるものは世界で売れる」。盛田の信念であった。その後、世界中に販路を開いて「世界一小さいラジオで世界を制した」と言われた。
 亡くなる前年の1998年には、米タイム誌が選んだ「20世紀に最も影響のあった経済人20名」の一人に選ばれた。20名の中にはウォルト・ディズニー、ヘンリー・フォードという錚々たる名前が並んでいる。押しも押されぬ世界的経済人の仲間入りを果たしたのである。選ばれた理由は、「それまで安物の代名詞であったメイドインジャパンのイメージをソニーが変えた」と言うことであった。

井深大との出会い

 盛田昭夫の人生は井深大抜きに語ることはできない。昭和18年、日本は戦争の真っ只中、日本軍の劣勢が色濃くなり始めた時期である。日本軍は、劣勢挽回のため、陸軍、海軍、官、民の枠を越えて広く人材を集め、「科学技術研究会」を開いていた。新兵器の開発のためである。この研究会に盛田と井深が参加しており、二人の半世紀に及ぶ関係が始まった。
 井深は当時、「日本測定器」という会社を作っており、周波数継電器という製品を開発していた。これが兵器にも利用できるということで、この研究会の一員に選ばれていたのである。一方、盛田は大学卒業したてのほやほやの軍人で、海軍技術中尉であり、海軍の代表として参加していた。
 この研究会で盛田は井深の技術者としての見識の高さに驚き、敬服した。井深も自分の意見をはっきりと主張する盛田という人間に惹かれた。盛田は井深より年が13歳も下でありながら、対等に口をきいていた。盛田が注文を出す側の海軍の代表という立場であったからであるが、それだけではない。お互いが相手の中に尊敬に値するものを見つけだしていたからであろう。
 その上、戦争に対する見方が一致していた。彼ら二人は戦争を客観的、合理的に見ていた。戦争は国と国との技術力の勝負であり、技術の優劣が勝敗を決する。日本の悲劇的敗北は動かしがたいものである。この点で二人の見解は全く一致していた。二人はこの頃から戦後のことを考え話し合っていた。
 戦後まもなく、井深大は東京の日本橋に「東京通信研究所」という会社を興していた。会社を興した直後、井深が開発した短波コンバーターが飛ぶように売れた。終戦後、2ヶ月も経っていないときのことである。この活躍に目を付けたのが朝日新聞であった。1945年10月6日付けのコラムに井深の仕事ぶりを詳しく紹介した。
 戦後、名古屋に帰省していた盛田は、偶然このコラムを目にした。彼は飛び上がって喜んだ。「よかった。井深さんは生きていた」。盛田はさっそく井深に手紙を書き、東京行きの列車に飛び乗った。この再会が盛田と井深の運命を決定した。1946年5月に「東京通信工業」(ソニーの前身)を設立し、彼ら二人の二人三脚が始まった。

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登録日時:2007/10/08(23:26)

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